書籍概要
企業が「イノベーションのジレンマ」に陥り、衰退していくのを防ぐ唯一の処方箋が、この「両利きの経営」です。既存事業で利益を出しながら(深化)、同時に全く新しい領域へ種をまき続ける(探索)。この二つの活動は組織的に分離しながらも、経営トップの強い意志で統合されなければなりません。イノベーターにとっての、組織内での「生存と成長」の論理。
イノベーターへの視点
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知の探索(Exploration) 自社の既存の知恵(コンピテンシー)の範囲を超えて、遠くの知を探し、これまでにない組み合わせを試みる活動。失敗を許容し、学習を最大化する。
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知の深化(Exploitation) 既存の知を磨き上げ、効率を高め、確実に利益を刈り取る活動。改善、標準化、管理が重視される。
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戦略的意図と組織文化 既存事業の文化が新規事業を飲み込んでしまわないよう、明確な戦略的意図を持って組織を設計し、異なる評価軸を共存させる力。
徹底分析:『両利きの経営』
要約(Abstract)
『両利きの経営』は、スタンフォード大学のチャールズ・A・オライリー教授とハーバード・ビジネス・スクールのマイケル・L・タッシュマン教授が、約20年にわたる共同研究の集大成として著した戦略経営書である。原著『Lead and Disrupt: How to Solve the Innovator’s Dilemma』(Stanford University Press, 2016)は、クレイトン・クリステンセンが提起した「イノベーターのジレンマ」に対し、 組織的両利き性(Organizational Ambidexterity) という概念を解決策として提示した。
本書の核心的主張は、成熟企業が長期的に存続するためには、既存事業の効率的な運営( 知の深化 / Exploitation)と、不確実な新領域への挑戦( 知の探索 / Exploration)を同時に追求しなければならないというものである。この二律背反を組織的に解決する手法として、 構造的分離(Structural Separation) と 経営トップによる戦略的統合 の両立を説く。日本語版は入山章栄・早稲田大学教授の監訳・解説によって、日本企業の文脈に適合した形で紹介され、2019年の初版刊行以来、大企業の経営幹部層を中心に広く読まれている。
1. 核心テーゼ(内部構造)
探索と深化の非対称性
本書の理論的基盤は、ジェームズ・G・マーチが1991年に発表した記念碑的論文「Exploration and Exploitation in Organizational Learning」(Organization Science, Vol.2, No.1)に遡る。マーチは、 探索と深化が本質的に異なる組織アーキテクチャを必要とする ことを示した。探索は即興性・自律性・疎結合なシステムと親和し、深化はルーティン化・官僚制・密結合なシステムと結びつく。
オライリーとタッシュマンの貢献は、この理論的洞察を 実行可能な組織設計原理 にまで昇華させた点にある。1996年の原論文「Ambidextrous Organizations: Managing Evolutionary and Revolutionary Change」(California Management Review, Vol.38)で初めて提唱されたこの概念は、漸進的イノベーションと破壊的イノベーションを同時に追求する組織形態の必要性を論じた。
構造的分離と統合のパラドックス
本書が提示する組織設計の核心は、 探索ユニットと深化ユニットを構造的に分離しつつ、経営トップのレベルで戦略的に統合する という二重構造にある。探索部門には独自の組織文化・人事制度・評価基準・意思決定プロセスを許容し、既存事業のオペレーショナル・エクセレンスが新規事業の実験精神を圧殺しないよう設計する。
ここで決定的に重要なのは、 分離だけでは不十分 だという指摘である。コーポレート・ベンチャー・ユニット(CVU)を設立しても、本体事業との「結合組織(connective tissue)」が欠如すれば、孤立して消滅する。著者らは、CEOを筆頭とする経営チームが両事業の間に立ち、 資源配分・知識移転・戦略的整合性を能動的に管理する ことが成功の条件だと強調する。
リーダーシップの要件
本書は組織論でありながら、その本質は 経営者論 である。両利きの経営を機能させるために、リーダーには「矛盾を内包する組織を率いる能力」が求められる。短期的収益と長期的投資、効率と実験、統制と自律――これらの緊張関係を解消するのではなく、 意図的に共存させるリーダーシップ が核心であるとする。
2. 批判的分析(外部批評)
本書の理論に対しては、複数の学術的批判が提起されている。第一に、 概念の拡散と曖昧化 の問題がある。Kassotaki(2022, SAGE Open)のレビューが指摘するように、組織的両利き性の文献は、マーチの原義である探索・深化の緊張関係から離れ、「整合性と適応性」など、より広範な概念へと再定義される傾向にある。この概念的拡散が理論の検証可能性を損なっているとの批判は根強い。
第二に、 構造的分離アプローチの限界 が議論されている。ジュリアン・バーキンショーとクリスティーナ・ギブソン(2004)は、構造的分離に代わる「 文脈的両利き性(Contextual Ambidexterity)」を提唱した。これは個人レベルで探索と深化を切り替える能力を組織文化として醸成するアプローチであり、分離による統合コストやサイロ化のリスクを回避できるとする。実際に、BAT、ロイヤル・サン・アライアンス、ブリティッシュ・エアウェイズなどの企業は、ドットコム・バブル期にCVUを設立したが、本体との接続不足により大半が孤立・消滅した。
第三に、 実証研究の方法論的課題 がある。Junni, Sarala, Taras & Tarba(2013, Academy of Management Perspectives)による69本の実証研究のメタ分析は、組織的両利き性とパフォーマンスの間に正の相関を確認したものの、その効果は 産業特性・分析レベル・測定方法に大きく左右される ことを明らかにした。特に、主観的なパフォーマンス指標とクロスセクショナル・デザインに依拠した研究で効果が過大評価される傾向が指摘されている。
3. 比較分析(ポジショニング)
クリステンセン『イノベーションのジレンマ』との対峙
クリステンセンの処方箋は、破壊的イノベーションを追求する 独立したスピンアウト組織 の設立であった。オライリーとタッシュマンはこれを明確に批判し、スピンアウトでは既存事業の資産・ブランド・顧客基盤を活用できないと論じる。 「分離しつつも統合する」 というパラドキシカルな組織設計こそが、本書の独自の立場である。
マーチ「Exploration and Exploitation」(1991)との関係
マーチの論文は被引用数6,000回を超える経営学の金字塔であり、本書の理論的土台を形成する。ただし、マーチの議論は 組織学習の資源配分問題 として抽象的に定式化されたものであり、具体的な組織設計の処方箋は含まない。本書はマーチの理論的洞察を経営実務に「翻訳」した点で、独自の貢献を持つ。
バーキンショー & ギブソン「文脈的両利き性」(2004)との分岐
バーキンショーらの「文脈的両利き性」は、 組織文化とマネジメント・システムの設計 によって、同一ユニット内で探索と深化を両立させるアプローチである。構造的分離を前提とする本書とは対照的な立場をとるが、Raisch & Birkinshaw(2008, Journal of Management)のレビューが示すように、両アプローチは排他的ではなく、 企業の発展段階・環境条件に応じて使い分ける補完的手段 として位置づけられつつある。
4. 学術的検証(科学的根拠)
組織的両利き性の実証的基盤は着実に蓄積されている。Junniらのメタ分析(2013)は、69本の実証研究を統合し、 両利き性と企業パフォーマンスの間に統計的に有意な正の関係 を確認した。ただし、この関係は非製造業でより強く、また組織レベルの分析で個人レベルよりも顕著であった。
O’Reilly & Tushman(2013, Academy of Management Perspectives)自身によるレビュー論文「Organizational Ambidexterity: Past, Present and Future」は、構造的両利き性を採用した企業が、それ以外の企業と比較して 新規事業の生存率と収益性の両面で優位 であったことを、複数の縦断的研究に基づいて報告している。
一方で、 因果関係の方向性 に関する疑問は未解決である。高業績企業が両利き的な組織設計を「採用できる余裕がある」のか、両利き的設計が高業績を「もたらす」のかという内生性の問題は、Kassotaki(2022)のレビューでも指摘される重要な課題として残されている。
5. 実践的示唆とケーススタディ
AGC(旧旭硝子)― 日本企業の模範的実践
AGCは本書の理論を最も忠実に実践した日本企業の一つである。4期連続減益の中でCEOに就任した島村琢哉氏は、企業の存在意義を 「ガラスの会社」から「素材の会社」へ再定義 し、コア事業(建築用ガラス・自動車用ガラス)の深化と、戦略事業(ライフサイエンス・エレクトロニクス素材)の探索を構造的に分離して推進した。このケースはオライリー教授自身がスタンフォード大学経営大学院の教材として採用し、経営トップによるパーパスの再定義・事業戦略の再構築・組織文化変革の三位一体が成功要因であったと分析されている。
富士フイルム ― 本業消失からの構造転換
富士フイルムは、デジタル化による写真フィルム市場の急激な縮小という「本業消失」の危機に直面した。古森重隆CEOは 「第二の創業」 を掲げ、フィルム製造で培った化学技術・精密加工技術を基盤に、ヘルスケア・高機能材料・ドキュメントソリューションへの大規模な事業転換を断行した。深化領域(既存の光学・イメージング事業の効率化)と探索領域(医薬品・再生医療・化粧品への多角化)を、 経営トップの強い意志と大胆なM&A戦略 によって統合した事例であり、本書の理論が示す「リーダーシップの要件」を体現している。
Amazon ― テクノロジー企業の連続的探索
Amazonは、書籍販売からオンライン小売、物流プラットフォーム、クラウドコンピューティング(AWS)、動画配信へと 連続的な事業領域の拡張 を実現してきた。既存事業のオペレーショナル・エクセレンスを追求しつつ、社内プロジェクトから生まれたS3などの技術を独立事業(AWS)として育成した過程は、構造的分離と資産活用の好例である。本書が強調する「 既存事業の資産を新規事業のレバレッジとして活用する」原理が、テクノロジー企業においても有効であることを示している。
6. 結論
『両利きの経営』は、成熟企業のイノベーション戦略に関する最も包括的かつ実践的なフレームワークを提供した著作として、学術・実務の両面で高い評価を受けている。マーチ(1991)の理論的基盤から出発し、クリステンセンのジレンマへの具体的処方箋を提示し、豊富な企業事例によって理論の実行可能性を示した構成は、 経営学の理論と実務を橋渡しする希少な貢献 である。
一方で、概念の拡散、実証研究の方法論的限界、文脈的両利き性との理論的整合性など、未解決の学術的課題も残されている。特に日本企業への適用においては、欧米型の構造的分離が日本的経営の文脈でどこまで機能するか、既存組織の強固な同質性をどう克服するかという問いが重要となる。それでもなお、AGCや富士フイルムの事例が示すように、 経営トップの意志と組織設計の工夫によって、探索と深化の両立は実現可能 である。大企業の新規事業開発に携わるすべての実務家にとって、本書は避けて通れない基本文献であり続けている。
参考文献
- March, J. G. (1991). “Exploration and Exploitation in Organizational Learning.” Organization Science, 2(1), 71-87.
- Tushman, M. L., & O’Reilly, C. A. (1996). “Ambidextrous Organizations: Managing Evolutionary and Revolutionary Change.” California Management Review, 38(4), 8-30.
- Gibson, C. B., & Birkinshaw, J. (2004). “The Antecedents, Consequences, and Mediating Role of Organizational Ambidexterity.” Academy of Management Journal, 47(2), 209-226.
- O’Reilly, C. A., & Tushman, M. L. (2004). “The Ambidextrous Organization.” Harvard Business Review, 82(4), 74-81.
- Raisch, S., & Birkinshaw, J. (2008). “Organizational Ambidexterity: Antecedents, Outcomes, and Moderators.” Journal of Management, 34(3), 375-409.
- O’Reilly, C. A., & Tushman, M. L. (2013). “Organizational Ambidexterity: Past, Present and Future.” Academy of Management Perspectives, 27(4), 324-338.
- Junni, P., Sarala, R. M., Taras, V., & Tarba, S. Y. (2013). “Organizational Ambidexterity and Performance: A Meta-Analysis.” Academy of Management Perspectives, 27(4), 299-312.
- O’Reilly, C. A., & Tushman, M. L. (2016). Lead and Disrupt: How to Solve the Innovator’s Dilemma. Stanford University Press.
- Kassotaki, O. (2022). “Review of Organizational Ambidexterity Research.” SAGE Open, 12(1).
- Christensen, C. M. (1997). The Innovator’s Dilemma: When New Technologies Cause Great Firms to Fail. Harvard Business School Press.
- 入山章栄 (2019).「解説」『両利きの経営』東洋経済新報社.
- 島村琢哉・オライリー, C. A. (2020). AGCケーススタディ. スタンフォード大学経営大学院.
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