書籍概要
新規事業は、高い山を登るようなものです。地図なき登山は遭難を招きます。本書が提供するのは、理想の未来(頂き)に向けて、自らの手で地図を描くための「グランドデザイン思考」。大企業の新規事業部署に所属するすべての人、そしてその部署を管轄する役員の「目線合わせ」に最適です。
イノベーターへの視点
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グランドデザイン思考 「今できること」から積み上げるのではなく、「あるべき未来」を定義し、そこから逆算して今すべきアクションを導き出すプロセス。
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徹底的な分解と実装 キャッチーなKPIや無謀な目標ではなく、日々の業務に落とし込めるレベルまで「行動」を分解し、確実に実行するためのフレームワーク。
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組織の総力戦 イノベーター個人だけでなく、組織全体がいかにして新規事業を「自分事」とし、加速させるためのエコシステムを構築するか。
徹底分析:『超・実践! 事業を創出・構築・加速させる グランドデザイン大全』
要約(Abstract)
本書は、キュレーションズ株式会社が12年以上にわたり大企業の新規事業創出を支援する中で蓄積した 暗黙知を形式知化 した実務書である。「グランドデザイン思考」と名づけられたフレームワークの核心は、理想の未来像を起点としたバックキャスティング型の事業設計にある。
約200ページというコンパクトな構成でありながら、事業の創出・構築・加速という 3つのフェーズを一気通貫で体系化 した点が特筆に値する。従来のイノベーション書籍がアイデア創出やビジネスモデル設計に偏重する中、本書は「実行可能な行動への分解」と「組織全体の巻き込み」まで踏み込んでいる。
日本の大企業において新規事業の 累損解消率がわずか7% という厳しい現実(アビームコンサルティング, 2018)に対し、構造的な処方箋を提示しようとする意欲作といえる。
1. 核心テーゼ(内部構造)
1-1. バックキャスティング型事業設計の独自性
本書の最大の特徴は、「今できること」からの積み上げ(フォアキャスティング)を明確に否定し、 理想の未来像から逆算するバックキャスティング を事業設計の出発点に据えている点にある。バックキャスティングは1982年にJohn B. Robinsonがエネルギー政策分野で提唱した手法であり、1996年にはDreborgが持続可能な開発への適用を体系化した。
本書はこの概念を 大企業の新規事業開発という文脈 に翻訳している。単なるビジョン策定ではなく、「顧客が想像できない未来を創造する」という野心的な目標設定から、日々の業務レベルのアクションにまで落とし込む点が独自性を生んでいる。
1-2. 行動分解フレームワークの実装思想
多くのイノベーション書籍が「What(何をやるか)」に終始する中、本書は 「How(どう実行するか)」の解像度 を極限まで高めようとしている。KPIの設定方法、日次・週次の行動指標への分解、フローチャート形式での工程可視化といった実装レベルの知見が凝縮されている。
この「行動分解」のアプローチは、戦略と実行の乖離という大企業特有の課題に直接的に応えている。 フレームワークを「使える道具」にまで具体化 した点は、類書との明確な差別化要因となっている。
1-3. 組織エコシステム論の射程
本書は事業担当者個人の能力開発にとどまらず、 組織全体を新規事業推進のエコシステム として設計する視点を提供している。事業部門と管轄役員の「目線合わせ」を重視し、経営層と現場の認識ギャップを構造的に解消しようとしている。
この視点はO’ReillyとTushmanが提唱する「 両利きの経営(Organizational Ambidexterity)」の実務的実装ともいえる。既存事業の深化(exploitation)と新規事業の探索(exploration)を同時に追求するための組織設計の具体解を、日本企業の文脈で提示している点に価値がある。
2. 批判的分析(外部批評)
本書に対しては、いくつかの構造的な限界を指摘できる。第一に、キュレーションズの 支援実績に基づく「生存者バイアス」 の問題がある。成功事例から抽出されたフレームワークが、失敗事例の分析を十分に含んでいるかは検証が必要である。
第二に、バックキャスティングの前提となる 「理想の未来像」の設定精度 に関する議論が薄い。未来予測の不確実性が高い領域では、設定した未来像そのものが誤っている可能性があり、その場合の修正メカニズムについて踏み込んだ記述が求められる。
第三に、Chesbrough(2003)が指摘する オープンイノベーション の視点が限定的である。大企業の新規事業においては、社外のスタートアップやアカデミアとの共創がますます重要になっているが、本書は主として社内プロセスの最適化に焦点を当てている。
第四に、約200ページという分量は読みやすさの利点がある反面、各フェーズの 事例検証の深さにおいて制約 となっている。特に「加速フェーズ」における組織的障壁の克服事例は、より多くの紙幅を割くべきテーマであった。
3. 比較分析(ポジショニング)
3-1. 『イノベーションのジレンマ』(Clayton Christensen, 1997)との比較
Christensenが 破壊的イノベーションの構造的必然性 を解き明かした「診断の書」であるのに対し、本書は「処方箋の書」として位置づけられる。Christensenは大企業が既存顧客の要求に応えることで破壊的技術を見逃すメカニズムを理論化したが、「ではどうすればよいか」の具体解は限定的であった。
本書のグランドデザイン思考は、Christensenが提示した ジレンマに対する実務的な解法 の一つとして機能しうる。理想の未来像を先に設定することで、既存顧客の声に引きずられるバイアスを構造的に回避しようとしている点に、理論と実践の架橋としての意義がある。
3-2. 『リーン・スタートアップ』(Eric Ries, 2011)との比較
Riesの方法論が 「構築→計測→学習」の高速サイクル によるボトムアップ型の事業仮説検証を重視するのに対し、本書はトップダウン型のビジョン設定を出発点とする。Blank(2013)がHarvard Business Reviewで指摘したように、リーン・スタートアップの手法は大企業の文脈ではそのまま適用できない限界がある。
本書は、大企業には大企業に適した方法論があるという前提に立ち、 リーン・スタートアップとは相補的な関係 にある。理想の未来を定義した上で、実行段階ではリーン的な仮説検証を組み込む「ハイブリッド・アプローチ」の可能性を示唆している。
3-3. 『両利きの経営』(O’Reilly & Tushman, 2016)との比較
O’ReillyとTushmanは 組織構造レベルでの探索と深化の両立 を理論化し、構造的分離(Structural Ambidexterity)の重要性を実証した。本書はこの理論を実務レベルで補完する位置づけにある。
『両利きの経営』が「なぜ必要か」「どのような組織構造が有効か」を論じるのに対し、本書は 「探索部門の中で何をどう実行するか」 を詳細に記述している。両書を併読することで、組織設計(マクロ)と事業開発プロセス(ミクロ)の両面から新規事業に取り組むための統合的な視座が得られる。
4. 学術的検証(科学的根拠)
本書の方法論的基盤であるバックキャスティングは、学術的に 豊富な検証実績 を持つ。Robinson(1990)は『Futures』誌において、バックキャスティングが従来の予測型アプローチでは対応できない複雑な政策課題に有効であることを論証した。
Dreborg(1996)は同じく『Futures』誌で、バックキャスティングの本質は 「発見の文脈(context of discovery)」 にあると結論づけた。既存の延長線上にない解を探索する際に、規範的・問題解決的なアプローチが有効だとする知見は、本書の方法論を学術的に裏づけている。
California Management Review(2024)に掲載されたQuélin et al.の研究は、 非連続イノベーション(discontinuous innovation) においてバックキャスティングが効果的であることを実証した。新技術と新市場を同時に開拓する際、従来のフォアキャスティングでは限界があり、未来像からの逆算が戦略的に有効だとしている。
一方で、PwC Japan(2025)の「新規事業開発の取り組みに関する実態調査」は、日本企業の新規事業成功要因として 「顧客ニーズとの高い適合性」と「経営トップの意識・意欲の高さ」 を挙げている。本書のグランドデザイン思考は後者のファクターと整合するが、前者に関してはフォアキャスティング的なニーズ検証も不可欠であることを示唆している。
5. 実践的示唆とケーススタディ
5-1. ソニー「Sony Startup Acceleration Program(SSAP)」
ソニーのSSAPは2014年に設立され、社内から新規事業のアイデアを発掘・育成するプログラムである。 ステージゲート方式 でアイデアから事業化までを4段階に分解し、各段階にゲート審査を設けている。2021年時点で17の事業を創出し、aiboの復活やMESHの商品化などの成果を生んだ。
本書のグランドデザイン思考との共通点は、 事業化プロセスの構造化と段階的評価 にある。一方でSSAPがボトムアップ型のアイデア募集を起点とするのに対し、本書はトップダウンのビジョン設定を出発点とする違いがあり、両アプローチの統合が今後の課題となる。
5-2. 富士フイルムの構造転換
富士フイルムは写真フィルム市場の消滅という 年率20%以上の需要急減 に直面しながら、ヘルスケア事業への転換に成功した代表的な事例である。写真フィルムの製造で培った20万種以上の化合物ライブラリやコラーゲン技術を、医薬品・再生医療分野に転用する戦略を採用した。
この事例は、本書が提唱する「理想の未来像からの逆算」が 技術の再定義と新市場への展開 において有効に機能することを示している。商品そのものではなく、商品を支える技術を抽出・再定義するプロセスは、グランドデザイン思考の実践例として極めて示唆に富む。
5-3. リクルート「Ring」制度
リクルートの新規事業提案制度「Ring」は1982年に始まり、ゼクシィ、スタディサプリ、ホットペッパーなど 数々の大型サービスを輩出 してきた。年間約1,000件の応募から5〜6件が事業化ステップに進む仕組みで、ブートキャンプ(全13講座)や社内サポーター制度による組織的支援体制が整備されている。
本書の「組織の総力戦」の視点と通底するのは、 全社員が新規事業に参画できる制度設計 と、事業化を支えるエコシステムの構築である。リクルートの事例は、個人の起業家精神と組織の支援体制が両立した際に、新規事業の量産が可能になることを実証している。
6. 結論
『グランドデザイン大全』は、日本の大企業における新規事業開発の 「理論と実践のギャップ」を埋める 実務書として高く評価できる。バックキャスティングという学術的に確立された方法論を、大企業の事業開発という具体的な文脈に翻訳し、行動レベルまで分解した点に独自の貢献がある。
一方で、生存者バイアスの克服、未来像設定の不確実性への対応、オープンイノベーション視点の統合といった 構造的な課題 も残されている。本書の方法論は、リーン・スタートアップや両利きの経営といった他のフレームワークと組み合わせることで、より堅牢な実践体系へと発展する可能性を持つ。
新規事業の成功率が依然として低い日本の大企業にとって、本書は 「なぜ失敗するのか」の診断から「どう成功させるか」の処方箋 への転換点を提示する一冊である。
参考文献
- Robinson, J.B. (1982). “Energy backcasting: A proposed method of policy analysis.” Energy Policy, 10(4), 337-344.
- Robinson, J.B. (1990). “Futures under glass: A recipe for people who hate to predict.” Futures, 22(8), 820-843.
- Dreborg, K.H. (1996). “Essence of backcasting.” Futures, 28(9), 813-828.
- Christensen, C.M. (1997). The Innovator’s Dilemma. Harvard Business Review Press.
- Chesbrough, H.W. (2003). Open Innovation: The New Imperative for Creating and Profiting from Technology. Harvard Business School Press.
- O’Reilly, C.A. & Tushman, M.L. (2008). “Ambidexterity as a dynamic capability: Resolving the innovator’s dilemma.” Research in Organizational Behavior, 28, 185-206.
- Ries, E. (2011). The Lean Startup. Crown Business.
- Blank, S. (2013). “Why the Lean Start-Up Changes Everything.” Harvard Business Review, 91(5), 63-72.
- O’Reilly, C.A. & Tushman, M.L. (2016). Lead and Disrupt: How to Solve the Innovator’s Dilemma. Stanford Business Books.
- アビームコンサルティング (2018). 「新規事業取り組み実態調査」.
- Quélin, B.V. et al. (2024). “Backcasting from the Future: Strategies for Accelerating and De-Risking Discontinuous Innovations.” California Management Review, 66(2).
- Mendoza, J.M.F. et al. (2017). “Integrating Backcasting and Eco-Design for the Circular Economy: The BECE Framework.” Journal of Industrial Ecology, 21(3), 526-544.
- PwC Japan (2025). 「新規事業開発の取り組みに関する実態調査2025年」.
- 日本総合研究所. 「新事業開発の成功と失敗の要因に関する一考察」.
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