書籍概要
新規事業を継続的に生み出す組織には、優れた「経営人材」が不可欠です。しかし、経営人材は勝手に育つものではありません。意図的な「経験の付与」と「タフなアサインメント」が必要です。本書は、人事の視点から、いかにして次世代の変革者を育成し、組織のDNAを継承していくかという戦略的育成論を説いています。
イノベーターへの視点
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経験学習の設計 リーダーシップは机上で学ぶものではなく、現場の「痛みを伴う経験」からしか学べない。いかにして意図的な失敗や修羅場を経験させるか。
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選抜と早期育成 「一律」の教育を止め、ポテンシャルある人材を早期に見抜き、集中的にリソースを投下する勇気。
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経営人材の要件定義 単なるマネージャー(管理職)ではなく、未来を構想し、リスクを取って変革を導く「経営者」としての視界、視座、視影。
徹底分析:『経営人材育成論』
要約(Abstract)
本書は、学習院大学教授・一橋大学名誉教授の守島基博が、 戦略的人的資源管理(Strategic HRM) の観点から経営人材育成の体系的フレームワークを提示した学術書である。東京大学出版会から2021年に刊行され、日本企業における次世代リーダー育成の構造的課題に正面から切り込んでいる。
著者はイリノイ大学で人的資源管理論の博士号を取得し、日米双方の研究知見を統合する希少な立場にある。本書の中核的主張は、経営人材は自然発生的に育つものではなく、「 意図的な経験の付与」と組織的な育成システムの設計によってのみ創出されるという点にある。
McCall, Lombardo & Morrison(1988)の経験学習研究や、Kolb(1984)の経験学習理論を日本的文脈に再解釈し、 タフアサインメント(修羅場経験)を核とした育成モデルを構築している。本分析では、その理論的基盤、批判的論点、学術的位置づけ、そして実践的有効性を多角的に検証する。
1. 核心テーゼ(内部構造)
経験学習パラダイムの日本的展開
本書の第一のテーゼは、リーダーシップ能力の 70%以上が現場での経験から獲得される という経験学習パラダイムの日本企業への適用である。これはMcCall, Lombardo & Eichinger(1988)がCenter for Creative Leadership(CCL)で実施した調査に端を発する「70-20-10モデル」を理論的基盤としている。
守島は、日本企業に特有の長期雇用慣行とローテーション制度が、本来は経験学習の豊かな土壌となりうると指摘する。しかし、多くの企業では ローテーションが「平等主義的な配置転換」に矮小化 され、経営人材育成に必要な「意図的な修羅場経験」の設計がなされていないと批判する。松尾睦(2006)の『経験からの学習』における「挑戦・振り返り・楽しむ」の三要素とも呼応する主張であり、経験の「質」を問う姿勢が一貫している。
選抜と集中投資の論理
第二のテーゼは、 早期選抜とリソースの集中投下 の必要性である。「一律平等」の育成から脱却し、ポテンシャルの高い人材を早期に見極めて集中的に育成すべきだと守島は主張する。
この主張は、Charan, Drotter & Noel(2000)の「リーダーシップ・パイプライン」モデルと軌を一にしている。Fortune 500企業の30年にわたるコンサルティング経験から構築された同モデルは、マネジャーからCEOまで 6段階のリーダーシップ転換点 を定義し、各段階で求められるスキル・時間配分・価値観の質的変化を明示している。守島はこのパイプライン思考を日本的経営の文脈に移植し、「管理職」と「経営者」の間に存在する断層に光を当てている。
経営人材の要件定義と組織DNA
第三のテーゼは、経営人材とは単なる管理能力の延長線上にはなく、 「視界・視座・視影」という三次元的な経営者資質 が必要だという要件定義である。守島はマネージャー(管理職)とリーダー(経営者)を明確に峻別している。
この区別は、Kotter(1990)の「マネジメントとリーダーシップの本質的差異」や、Zaleznik(1977)のHarvard Business Review論文「Managers and Leaders: Are They Different?」の系譜に連なるものである。特に注目すべきは、守島が組織の DNAの継承 という視点を導入し、経営人材育成を単なる個人の能力開発ではなく、組織文化と戦略を次世代に伝達する「制度的装置」として位置づけている点である。
2. 批判的分析(外部批評)
本書の学術的価値は高く評価される一方で、いくつかの構造的な限界も指摘しうる。第一に、 経験学習モデルの実証的基盤の脆弱性 がある。70-20-10モデルの元データは、CCLが白人男性の上級幹部を対象に実施した自己報告調査に基づいており、サンプルの偏りと自己報告バイアスが内在している(ATD, 2014)。守島自身はこの限界に十分に言及しておらず、経験学習の有効性を前提として議論を展開している。
第二に、 早期選抜に伴う公平性とダイバーシティの問題 である。ハイポテンシャル人材の特定プロセスにおいて、 約60%の組織がバイアスの存在を認めている との調査結果がある(Brandon Hall Group, 2025)。上司推薦や業績評価に依存する選抜は、無意識バイアスによって特定のデモグラフィックに偏る危険性をはらんでいる。守島の議論は「選抜の必要性」を強調する一方で、選抜プロセスの公正性担保メカニズムについての具体的提案が手薄である。
第三に、 VUCA時代における経営人材像の変容 への対応が限定的である。本書は2021年刊行であるが、デジタルトランスフォーメーションやAIの急速な浸透が経営人材に求める資質をどう変えるかについての議論が相対的に薄い。経営人材の要件定義が、 過去の成功パターンの再生産 にとどまるリスクを内包している点は看過できない。
3. 比較分析(ポジショニング)
McCall, Lombardo & Morrison『Lessons of Experience』(1988)との比較
McCallらの著作は、経験学習研究の嚆矢として5万部以上を売り上げ、リーダーシップ開発研究の方向性を根本的に転換させた。守島の本書は、このCCL研究を 日本的経営の制度的文脈に移植した応用研究 として位置づけられる。
McCallらが主に米国大企業の白人男性幹部を対象としたのに対し、守島は日本企業の長期雇用・年功序列・企業別組合という制度的特殊性を考慮した理論構築を試みている。ただし、McCallらの研究がその後、女性幹部やアフリカ系幹部、アジア各国の管理職に対して追試されたのに対し、守島の枠組みの 国際的再現可能性は未検証 である。
Charan, Drotter & Noel『The Leadership Pipeline』(2000)との比較
「リーダーシップ・パイプライン」モデルは、組織階層の各段階における質的転換を体系化した点で、守島の「管理職と経営者の断層」論と共鳴する。しかし、Charanらのモデルが 6段階の普遍的フレームワーク を提示したのに対し、守島の議論はより文脈依存的である。
パイプラインモデルへの批判として、公共セクターへの適用可能性を検証した実証研究では、 民間企業向けに設計されたスキル要件がそのまま適用できない ことが示されている。守島のアプローチは、普遍モデルへの過度な依存を避け、日本企業の個別性に寄り添う点で実践的有用性が高いといえる。
松尾睦『経験からの学習』(2006)との比較
松尾睦の経験学習理論は、Kolb(1984)の経験学習サイクルを日本の組織研究に展開した先駆的業績であり、同書は「HRアワード2012」書籍部門最優秀賞を受賞している。守島の本書と松尾の研究は「 経験こそが人を育てる」という基本命題を共有するが、焦点が異なっている。
松尾が主にミドルマネジメント層の日常的な経験学習プロセスに注目するのに対し、守島は トップマネジメント層への育成パイプライン全体 を射程に収めている。両者は補完的関係にあり、松尾の「挑戦・振り返り・楽しむ」の三要素は、守島のタフアサインメント論における具体的な学習メカニズムの説明に援用しうる。
4. 学術的検証(科学的根拠)
本書の理論的骨格をなす経験学習パラダイムについて、その科学的根拠を検証する。Kolb(1984)の経験学習理論は、「 具体的経験→省察的観察→抽象的概念化→能動的実験」の4段階サイクルを提唱し、リーダーシップ開発領域で広く参照されている。系統的レビュー(Morris, 2020)では、経験学習の枠組み自体には一定の実証的支持があるものの、学習スタイルの4類型については 実証的根拠が弱い ことが指摘されている。
70-20-10モデルについては、ATD(Association for Talent Development)が2014年に「Where Is the Evidence?」と題した記事で、 正確な比率を裏付ける実証データが不十分 であると指摘している。元データはCCLの自己報告調査に基づいており、回想バイアスや社会的望ましさバイアスの影響を排除できていない。ただし、「経験が学習の主要な源泉である」という定性的知見自体は、複数の追試で支持されている。
守島自身の学術的業績として、『Embedding HRM in a Social Context』(British Journal of Industrial Relations, 1995)や日本企業パネルデータを用いた 人的資源管理施策の生産性効果の実証研究 がある。これらの研究は、HRM施策と企業パフォーマンスの因果関係に関する実証的基盤を提供しており、本書の主張に一定の学術的信頼性を付与している。
5. 実践的示唆とケーススタディ
日立製作所:「GT+」グローバルリーダー育成パイプライン
日立製作所は、守島が主張する「意図的な経験の付与」と「パイプライン設計」を最も体系的に実践している企業の一つである。2016年に始動した GLD(Global Leadership Development)プログラム では、グループ全体の戦略的ポジション約40〜60を「KP+(Key Position Plus)」として定義している。
世界中から数百名の候補者を「GT+(Global Talent Plus)」として選抜し、 タフアサインメントを組み込んだOJTとコーチング を実施している。人財委員会は会長・社長を含む経営トップで構成され、年間32回開催される。プログラム始動から5年で、 主要グループ会社において40代の社長が誕生 するという具体的成果を上げた。約50名の若手優秀層を「Future 50」として集中育成する仕組みも、守島の「選抜と集中投資」テーゼの実践例である。
サントリー:「サントリー大学」による全社的経験学習基盤
サントリーグループは2015年に企業内大学「 サントリー大学」を開校し、世界約4万人・270社以上のグループ社員を対象とした育成プラットフォームを構築している。学習管理システム「MySU」では 18,000以上のオンライン講座 を多言語で提供している。
経営人材育成の中核として、ペンシルベニア大学ウォートン・スクールおよびケンブリッジ大学と共同開発した 約8ヶ月間のグローバルリーダーシッププログラム を運営している。参加者は集合セッション・コーチング・アクションラーニングを経て、最終的に経営層への直接プレゼンテーションに臨む。この取り組みは2024年度「コーナーストーン・ギャラクシー・アワード」(ワークフォース・アジリティー戦略部門)を受賞しており、守島の「経験学習の設計」テーゼが国際的にも評価される水準で実装されている事例である。
トヨタ自動車:「GLOBAL21」とグローバル・サクセッション
トヨタ自動車は「 GLOBAL21プログラム」を通じ、グローバル幹部人材の体系的育成に取り組んでいる。同プログラムは「経営哲学や幹部としての期待」「人事管理」「育成配置と教育プログラム」の 3本柱 で構成されている。
経営哲学の浸透では「トヨタウェイ 2001」を共通言語として配布し、育成配置では「Global Succession Committee」を開催して幹部人材の異動・配置および役員候補者の育成を議論している。守島が重視する「 組織DNAの継承」が、トヨタウェイという明文化された価値体系を通じて制度的に実現されている点は、本書の理論的枠組みの妥当性を裏づける好例である。
6. 結論
『経営人材育成論』は、日本の人的資源管理研究において 経験学習パラダイムを経営人材育成の文脈に体系的に適用した先駆的著作 である。McCallらの経験学習研究、Charanらのパイプラインモデル、Kolbの経験学習理論という欧米の主要理論を、日本的経営の制度的特殊性のもとで再構成した点に本書固有の学術的貢献がある。
一方で、経験学習モデルの実証的基盤の限界、早期選抜におけるバイアスと公平性の問題、VUCA時代における経営人材像の再定義といった課題は、今後の研究によって補完される必要がある。 実践面では日立製作所・サントリー・トヨタ自動車の事例が示すように、守島の提唱する「意図的な経験の付与」「選抜と集中投資」「組織DNAの継承」という三つの原理は、日本の大企業において具体的な制度設計として結実しつつある。
本書は、経営人材育成を「個人の自助努力」から「 組織の戦略的制度設計」へと転換する知的基盤を提供しており、新規事業開発を担う次世代リーダーの育成に取り組む実務家にとって不可欠の参照枠である。
参考文献
- McCall, M. W., Lombardo, M. M., & Morrison, A. M. (1988). The Lessons of Experience: How Successful Executives Develop on the Job. Lexington Books.
- Kolb, D. A. (1984). Experiential Learning: Experience as the Source of Learning and Development. Prentice Hall.
- Charan, R., Drotter, S., & Noel, J. (2000). The Leadership Pipeline: How to Build the Leadership Powered Company. Jossey-Bass.
- Morishima, M. (1995). Embedding HRM in a Social Context. British Journal of Industrial Relations, 33(4), 617-640.
- 松尾睦 (2006).『経験からの学習: プロフェッショナルへの成長プロセス』同文舘出版.
- 松尾睦 (2011).『職場が生きる 人が育つ「経験学習」入門』ダイヤモンド社.
- Kotter, J. P. (1990). A Force for Change: How Leadership Differs from Management. Free Press.
- Zaleznik, A. (1977). Managers and Leaders: Are They Different? Harvard Business Review, 55(3), 67-78.
- Morris, T. H. (2020). Experiential Learning – A Systematic Review and Revision of Kolb’s Model. Interactive Learning Environments, 28(8), 1064-1077.
- Lombardo, M. M., & Eichinger, R. W. (1996). The Career Architect Development Planner. Lominger.
- Morishima, M., & Kato, T. (2003). The Nature, Scope and Effects of Profit Sharing in Japan: Evidence from New Survey Data. International Journal of Human Resource Management, 14(6), 942-955.
- 守島基博 (2004).『人材マネジメント入門』日本経済新聞出版社.
- 中原淳 (2013). 経験学習の理論的系譜と研究のフロンティア.『日本労働研究雑誌』, No.639, 4-14.
- Brandon Hall Group (2025). How to Better Identify High-Potential Talent (Strategy Brief).
- ATD (2014). 70:20:10 — Where Is the Evidence? Association for Talent Development Blog.
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