課題・背景
2016年の電力小売全面自由化により、日本の電力市場には新規参入の道が開かれた。しかし、既存の電力会社が提供する料金プランは複雑で分かりにくく、消費者にとって 「どの電力会社を選べばよいか」 という判断自体が高いハードルとなっていた。一方、太陽光発電の固定価格買取制度(FIT)の買取価格は年々下落しており、余剰電力の新たな活用方法が求められていた。
さらに、再生可能エネルギーの普及に伴い、発電者と消費者が直接電力を売買する P2P(Peer to Peer)電力取引 の可能性が世界的に注目されていた。しかし、リアルタイムの需給マッチングや取引の透明性確保には高度な技術基盤が必要であり、日本では実証段階にすら至っていなかった。
取り組みの経緯
東京電力ホールディングスは2017年8月、電力自由化時代の新たなビジネスモデルを模索するため、社内ベンチャーとしてTRENDE株式会社を設立した。大企業の既存事業部門では実現しにくい シンプルな料金体系 と デジタル完結型の顧客体験 を追求するためである。2018年3月には家庭向け電力小売サービス「あしたでんき」の営業を開始し、基本料金0円のプランで市場に切り込んだ。
「ご家庭向けの新しい電力小売サービス『あしたでんき』の営業を開始」
――電力小売ベンチャー企業「TRENDE株式会社」の立ち上げについて(東京電力HD, 2018年3月)
並行して、TRENDEはブロックチェーンとAIを活用したP2P電力取引の技術開発に着手した。2019年6月から2020年8月にかけて、 東京大学およびトヨタ自動車 と共同で実証実験を実施し、一般家庭の電気料金を 約9%削減 できることを確認した。
サービス概要
TRENDEは3つの主要サービスを展開している。第一に、家庭向け電力小売サービス「あしたでんき」は、オンラインで 約10分 で申込みが完了するシンプルさが特徴である。第二に、太陽光発電の初期費用0円設置サービス「ほっとでんき」は、電気料金を最大 20%削減 できる仕組みを提供する。
第三に、P2P電力取引プラットフォームは、太陽光パネルや蓄電池を持つ家庭・事業者が余剰電力を直接売買できるサービスである。AIによる需給予測とブロックチェーンによる取引記録の透明化を組み合わせ、 「地産地消の電力取引」 を実現した。従来の電力会社を介さず、発電者と消費者が直接つながるという、エネルギー産業の構造を根本から変える試みである。
成果と現状
2023年6月、伊藤忠商事が東電ベンチャーズからTRENDEの全株式を取得し、連結子会社化した。この親会社の変更は、TRENDEにとって 事業拡大の転機 となった。総合商社の持つグローバルな販路と、エネルギー分野での豊富なネットワークを活用できるようになったためである。
「P2P電力取引の技術開発に取り組むTRENDE株式会社の連結子会社化について」
――伊藤忠商事プレスリリース(2023年6月)
2024年3月には群馬県(前橋市・高崎市)でP2P電力取引の商用サービスを開始した。同年9月には 全国農業協同組合連合会(JA全農) との連携により、全国の農業関連施設への展開も始まった。太陽光発電と蓄電池を持つ顧客同士が直接電力を売買できるこのサービスは、経済的メリットと環境価値の両立を実証している。
この事例から学べること
第一に、大企業の社内ベンチャーは「親会社の変更」によって飛躍することがある。 TRENDEは東京電力HDの子会社として生まれ、技術開発と市場検証を行った。しかし、商用展開の段階で必要だったのは電力インフラではなく、全国的な販路とパートナーネットワークであった。伊藤忠商事への移管は、事業フェーズに応じて最適な親会社が異なることを示す好例である。
第二に、P2P電力取引という新市場の創出には、産学連携による「技術の社会的信頼」の獲得が不可欠であった。 東京大学やトヨタ自動車との共同実証は、単なる技術検証にとどまらず、規制当局や市場参加者に対する説得材料としても機能した。新しい市場を創る際には、技術の正しさだけでなく、 社会的な合意形成 のプロセスが求められる。
第三に、エネルギー産業におけるブロックチェーンの実用化は、「小さく始めて実績を積む」アプローチが有効であることを示している。 TRENDEは地域限定の実証実験から始め、商用サービスへの段階的な移行を経て、JA全農との全国展開に至った。壮大なビジョンを掲げつつも、着実に実績を積み上げる堅実さが成功の鍵であった。


