課題・背景
2010年代半ば、Apple Watchの登場によりスマートウォッチ市場は急速に拡大した。しかし、 従来の腕時計を愛用する層にとって、スマートウォッチへの移行は容易ではなかった。デジタル表示のディスプレイは機械式時計の美しさとは異質であり、充電頻度の高さも日常使いのハードルとなっていた。
一方で、電子マネーや通知確認、活動量管理といったスマートウォッチの便利な機能への需要は確実に存在していた。「愛着のある腕時計はそのまま使いたい。でもスマート機能も欲しい」という 二律背反の声 に応える製品は市場に存在しなかった。
ウェアラブルデバイス市場は成長を続けていたが、プレイヤーの多くは時計本体をスマート化するアプローチに集中しており、 バンド(ベルト)側をスマート化する という発想は盲点となっていた。
なぜこの企業が取り組んだか
ソニーは2014年に社内の新規事業創出プログラム 「Sony Seed Acceleration Program(SAP)」 を立ち上げた(後にSSAP: Sony Startup Acceleration Programに改称)。社員であれば誰でもアイデアを提案でき、オーディションを通過すれば事業化に向けた支援を受けられる制度である。
wena wristを起案したのは、当時 入社1年目の新卒社員だった對馬哲平氏 である。對馬氏は「腕時計のバンド部分にスマート機能を入れれば、好きな時計の文字盤はそのまま使える」というコンセプトを提案した。年次や経験を問わないSSAPの制度設計があったからこそ、新卒社員のアイデアが事業化の俎上に載った。
2015年7月、ソニーは自社運営のクラウドファンディングサイト 「First Flight」 を開設し、wena wristはその代表的なプロジェクトとなった。クラウドファンディングを通じて市場の反応を確かめながら製品化するという、リーンスタートアップの手法を大企業の中で実践した先駆的な事例である。
「3年半で12の事業が誕生!新スマートウォッチを生んだ、ソニー流・新規事業開発の裏側」
――ソニー流・新規事業開発の裏側(SELECK)
サービスの仕組み・差別化
wena wristの最大の差別化ポイントは、 スマートウォッチの機能をバンド(ベルト)部分に搭載 したことである。ヘッド(文字盤)部分は従来の腕時計のままでよく、好みのアナログ時計にwenaバンドを装着するだけでスマートウォッチ化できる。
バンドにはソニーの独自技術で FeliCaチップが内蔵 されており、手首を読み取り機にかざすだけで電子マネー決済が可能。全国45万店舗以上で利用でき、Suicaにも対応した。加えて、通知機能・活動量計・バイブレーションアラートなどの機能もバンド内に収められている。
省電力設計により 通常使用で約1週間のバッテリー持続 を実現した点も、毎日充電が必要な他のスマートウォッチとの明確な差別化要素であった。2020年に発売された第3世代「wena 3」ではAlexa搭載やSuica対応を追加し、大幅な機能強化を果たした。
成長・成果
wena wristはFirst Flightでのクラウドファンディングで 1億円超の支援金を集め、当時の日本記録 を樹立した。この実績はwenaの市場ニーズを実証するとともに、SSAPの成功事例としてソニー社内での新規事業プログラムへの関心を高めた。
SSAPからは3年半で12の事業が誕生したとされ、wenaはその代表格として広く知られた。第1世代、第2世代(pro/active)、第3世代(wena 3)と 3世代にわたって製品を進化 させ、ソニーの社内発ベンチャーとしては異例の長期展開を実現した。
「異色スマートウォッチから”着るクーラー”まで ソニーが7年で17件の新規事業に成功したワケ」
――ソニーが7年で17件の新規事業に成功したワケ(ITmedia NEWS, 2021年3月)
展開・進化
wena 3のサービス・サポートは 2026年2月28日をもって終了 した。約10年にわたるwenaの歴史に区切りがついた形だが、注目すべきはその後の展開である。wena.jpドメインと商標は、wenaの生みの親である對馬哲平氏が率いる augment AI社 に移転された。
社内起業家が大企業の中で事業を育て、やがて独立して新たな形で継続するという軌跡は、SSAPが目指す「オーナーシップを持った事業創出」の理念を体現している。wenaの物語は終わりではなく、形を変えて次のステージに進んでいる。
この事例から学べること
第一に、年次や経験に関係なくアイデアを評価する制度設計の重要性である。 入社1年目の新卒社員が起案したアイデアが、日本記録のクラウドファンディングと3世代にわたる製品展開を実現した。これはSSAPが肩書きではなくアイデアの質で評価する仕組みを持っていたからこそ可能になった。
第二に、クラウドファンディングが大企業の新規事業においても有効な市場検証手段であるという点である。 First Flightを通じて製品化前に市場ニーズを確認し、開発資金も確保するというアプローチは、大企業が陥りがちな「作ってから売り先を探す」リスクを回避する方法として参考になる。
第三に、社内起業家のオーナーシップが事業の持続性を左右するという点である。 對馬氏がwenaのブランドをaugment AI社として引き継いだことは、起案者が最後まで事業に責任を持つ姿勢の表れである。社内起業プログラムは事業だけでなく、起業家精神を持った人材を育てる仕組みでもある。


