課題・背景:テレビとインターネットの「ねじれ」
2010年代半ば、日本の放送・動画業界は大きな転換点にあった。テレビの広告費は約 1兆8,000億円 と依然として巨大市場だったが、若年層のテレビ離れは加速し、インターネット広告費が急速に追い上げていた(2019年にはついにテレビを逆転し 約2兆円 に到達)。
一方、動画配信市場はNetflixやAmazon Prime Videoの日本上陸により急拡大。しかし、これらはいずれも「オンデマンド型(見たい時に見る)」であり、テレビが持つ 「同時性」――みんなで同じものをリアルタイムに見る体験――をインターネットで再現するプレイヤーは存在しなかった。
「インターネットがこれほど普及したのに、いまだにマスメディアの主役がテレビであること自体が最大の”不”だ。我々がそれをインターネットへ連れて行く」
――藤田晋(サイバーエージェント代表取締役)
なぜサイバーエージェントが取り組んだか
サイバーエージェントは、インターネット広告代理事業とゲーム事業で築いた莫大な利益を、次の成長エンジンに投下する岐路に立っていた。代表の 藤田晋 氏は、「インターネットでマスメディアを創る」という構想を打ち出し、テレビ朝日との共同出資によるジョイントベンチャーとしてAbemaTV(現ABEMA)を2016年に開局した。
藤田氏自身が総合プロデューサーを務め、社内のエース級人材を集中投下するという「 全振り」の姿勢を明確にした。「10年は黒字化しない」と公言し、既存事業の利益を注ぎ込み続ける姿勢は、まさに出島戦略の極致といえる。あした会議で生まれた周辺事業群との連携も、サイバーエージェント独自のエコシステムだった。
サービスの仕組み・差別化:「リニア×オンデマンド」の融合
ABEMAの最大の差別化は、テレビの「リニア放送」とネットの「オンデマンド」を融合させた点にある。24時間365日、複数チャンネルでリアルタイム放送を行いながら、見逃し配信やオンデマンド視聴にも対応。ユーザーは「何を見るか選ぶ面倒さ」から解放される設計だった。
コンテンツ戦略では、地上波では放送できないような挑戦的な企画を積極的に制作。ニュース、バラエティ、アニメ、スポーツの4領域で、 オリジナルコンテンツ を大量に投入した。特に恋愛リアリティーショーや格闘技中継は社会的な話題となり、ABEMAでしか見られない「キラーコンテンツ」が視聴者のロイヤルティを高めた。
「ABEMAのW杯の放映権獲得は推定200億円規模。しかしその結果、ダウンロード数は9,200万を突破し、週間アクティブユーザーは過去最高の3,400万に達した」
――ワールドカップがABEMAにもたらしたもの(Impress Watch, 2023年1月)
成長・成果:累計数千億円の投資を経て黒字化
ABEMAの道のりは、まさにJ カーブの教科書だった。開局から2023年までの累計で、メディア事業は 1,000億円を優に超える赤字 を計上。2023年9月期時点でAbemaTV単体は 1,278億円の債務超過 となった。
しかし2022年、FIFA ワールドカップ カタール大会の 全64試合を無料生中継 するという大勝負に出る。累計視聴数は 2,200万回超、アプリダウンロード数は 9,200万 に達し、「ABEMAで見る」が社会現象となった。この投資を契機に認知度は飛躍的に向上し、広告収入と有料会員(ABEMAプレミアム)の両方が成長軌道に乗った。
2025年9月期には、メディア&IP事業が売上 2,315億円、営業利益 72億円 を計上し、ABEMA開局以来 10年ぶりの通期黒字化 を達成した。
「ABEMAを開局して10年。赤字を出しながら投資を続けてきたが、ようやく営業利益に寄与するフェーズに入った」
――サイバーエージェント、ABEMA中心とするメディア&IP事業が最高売上・黒字転換(gamebiz, 2025年4月)
展開・進化:WINTICKET連携と収益構造の多層化
ABEMAの成功を読み解く上で欠かせないのが、公営競技のネット投票サービス「 WINTICKET」とのシナジーである。ABEMAで競馬・競輪の専門チャンネルを放送し、視聴者をWINTICKETの投票へと誘導する。メディアが「集客」を担い、周辺サービスが「収益」を上げるという多層構造だ。
2025年にはサイバーエージェントの社長交代が行われ、藤田氏は代表権を持つ会長として経営の第一線から一歩引いたが、ABEMAを中心としたメディア戦略の方向性は維持されている。アニメを軸としたIP(知的財産)戦略では、原作開発から映像制作、配信、グッズ展開まで「一気通貫」の体制を構築。コンテンツ企業への進化が着々と進んでいる。
この事例から学べること
第一に、「撤退ルール」の例外を作る勇気がムーンショット級の事業を生む。 会社の運命を賭けた戦略的事業には、あらかじめ既存の枠組みを超えた特別ルール(特別予算・長期スパン)を適用し、経営トップ自らが守り抜く必要がある。ABEMAの10年間の赤字は、通常の撤退基準なら何度も事業中止になるレベルだが、藤田氏の強い意志が死の谷を越えさせた。
第二に、カニバリズムを超越し、より大きな市場へ打って出る発想が必要である。 サイバーエージェントは既存のネット広告ビジネスを守るのではなく、自らマスメディアを創ることで、テレビ広告市場全体( 約1.8兆円)という桁違いのTAMにアクセスした。スケールの前提は、市場そのものを拡張する野心にある。
第三に、「インフラ化」への執着が無形のブランド資産を築く。 ワールドカップ全試合無料放送のような、短期的には採算が合わない「誰もが使うサービス」への投資が、長期的にはブランド認知と顧客基盤という取り返しのつかない資産を生み出す。新規事業のKPIを短期利益だけで測ることの危険性を、この事例は雄弁に物語っている。


