人物概要
千野 歩(ちの あゆむ)は、株式会社Ashiraseの代表取締役CEOである。本田技研工業(Honda)出身のエンジニア起業家であり、視覚障がい者向け歩行ナビゲーションデバイス「あしらせ」の発明者として知られる。
Hondaの新事業創出プログラム「IGNITION」から誕生したスタートアップ第1号という象徴的な存在であり、大企業の技術力とイントラプレナーの情熱が結びつくことで社会課題を解決できることを体現する人物である。
経歴・実績
本田技研工業の研究開発部門に入社後、電気自動車やハイブリッド車のモーター制御技術、さらには自動運転システムの開発に従事し、ハードウェアとソフトウェアの両面にわたる高度な技術力を培った。
転機となったのは、義父が視覚障がいを抱えながら日常の移動に苦労している姿を間近で目の当たりにしたことである。「技術の力で、目の見えない人にも自由な外出を届けたい」という切実な思いが、千野を社内起業の道へと突き動かした。視覚障がい者が白杖やガイドヘルパーに頼らざるを得ない現状に対し、自身の専門であるセンサー技術やモーター制御の知見を応用することで、まったく新しいアプローチでの解決策を模索し始めた。
Honda社内での試行錯誤を経て、靴のインソールに内蔵した振動デバイスが足裏を通じて進行方向を伝えるという独自のナビゲーション方式を考案。視覚や聴覚に頼らず「触覚」で情報を伝えるというアプローチは、既存の音声ナビゲーションとは根本的に異なる発想であった。この革新的なコンセプトがIGNITIONプログラムで高く評価され、事業化への道が開かれた。
現在の職務・プロジェクト
2021年4月、Hondaの新事業創出プログラム「IGNITION」を通じて事業案が正式に採択され、IGNITION発のベンチャー企業第1号として「株式会社Ashirase」を設立。代表取締役CEOに就任した。Hondaという巨大企業からスピンアウトする形で独立した、社内起業の成功モデルである。
主力製品「あしらせ」は、靴に装着する小型の振動デバイスとスマートフォンの専用アプリを組み合わせたシステムである。GPSと独自アルゴリズムにより目的地までのルートを算出し、左右の足裏への振動パターンで曲がるタイミングや方向を直感的に伝える。視覚や聴覚を一切遮らないため、白杖との併用が可能であり、利用者の安全性を損なわない点が高く評価されている。
2024年10月には次世代モデル「あしらせ2」をリリースし、量産体制を確立。デバイスの小型・軽量化と振動精度の向上を実現した。自治体や福祉団体との連携も進めており、視覚障がい者のQOL(生活の質)向上に向けたエコシステムの構築を目指している。
Hondaの技術的バックボーンを活かしたハードウェア開発力と、当事者コミュニティとの密接な関係構築による深いユーザーインサイトの両輪が、Ashiraseの競争力の源泉となっている。
思想とアプローチ
千野のアプローチの根底にあるのは、「テクノロジーは誰かの不自由を自由に変えるために存在する」という信念である。視覚障がい者の移動支援という領域は、市場規模の観点から大企業が積極的に参入しにくい分野であったが、だからこそ社内起業という形で大企業のリソースを活用しながら挑戦する意義があると千野は考えた。
Hondaのエンジニアとして培った「ユーザーの体験から逆算してものづくりをする」という開発思想は、あしらせの設計思想にも色濃く反映されている。視覚障がい当事者との徹底的な対話とフィールドテストを重ね、「技術者が作りたいもの」ではなく「当事者が本当に必要としているもの」を追求し続けている。
また、千野は「社内起業は、大企業の社会的責任を果たす最良の手段の一つである」と述べている。視覚障がい者は全世界で約2億5,000万人以上とされるが、その移動支援テクノロジーへの投資は依然として少ない。Hondaという世界的モビリティ企業の中で培われた技術とネットワークを、この社会的課題に直接投入できることが、イントラプレナーとしての最大の強みであるという。