研究所発の「技術の孵化器」
「IGNITION(イグニッション)」は、本田技研工業(Honda)が2017年に研究開発子会社である本田技術研究所にて立ち上げ、現在では全社および社外にまで拡大している新事業創出プログラムの名称である。
世界最高峰の技術と開発力を持つHondaの従業員の中には、既存の自動車や二輪車というメイン事業の枠内ではすぐに実現できない「独自の独創的な技術アイデア」や「強烈な原体験に基づく社会課題解決の構想」を秘めている技術者が多く存在した。 「The Power of Dreams」 を掲げる企業として、その情熱(エンジン)をくすぶらせず、形にするための点火装置=IGNITIONとして本プログラムが誕生した。
成功の鍵は「Hondaからの完全な自立」
日本の大企業による社内ベンチャー制度の中でも、IGNITIONが特筆すべき成果(連続的なスタートアップの創出)を上げている理由は、その出資スキーム(カーブアウト戦略)の巧みさにある。
2020年の制度改定により、「ベンチャー企業(別会社)設立」のスキームが追加された。その際の最も重要な取り決めが、「Hondaの出資比率をあえて20%未満に抑える」 という設計である。
大企業が100%出資の子会社を作ると、親会社のルールや稟議プロセスに縛られ、スタートアップとしての機動力(アジャイルなピボットや、赤字を掘ってでも急成長を狙うような大胆な戦略)が失われがちである。Hondaは出資比率を下げることで彼らを「自立・隔離」させた。これにより、VC(ベンチャーキャピタル)からの外部資金の調達が容易になり、大企業の信用力とスタートアップの自由度の「いいとこ取り」を実現したのである。
「起業・独立することに大きな不安があるのは事実。しかし、Hondaには『起業して失敗しても戻ってこられる』というセーフティネットがある。だからこそ、高いリスクとやりがいを持つベンチャー経営に全力で振り切ることができる」
―― IGNITIONプログラム参加起業家の声より
あしらせ・ストリーモ等の連続創出
このIGNITIONプログラムから初めて飛び立ったのが、視覚障がい者の親族を持つ千野歩が立ち上げた、歩行ナビゲーションデバイスを開発する「株式会社Ashirase」である。続いて第2号として、0.1mm単位の重心設計を活かした独自の三輪マイクロモビリティを開発する森庸太朗による「株式会社ストリーモ」が誕生した。
これらの企業は、Hondaが数十年培ってきた既存の「大量生産・大量消費の自動車インフラ」とは異なる、「ニッチだが極めて深刻な課題を抱える個人へのパーソナル・ソリューション」である。
この事例から学べること
IGNITIONの事例は、「大企業に眠る技術資産をいかに最速で社会実装するか」という命題に対する最適解の一つである。
第一に、「外部資本を入れられる余白」を残す設計思想である。 大企業は「せっかく自社で育てた技術と人材だから」と100%抱え込みたくなる誘惑に駆られる。しかし、Hondaは出資率を20%未満に留め、あえて経営の主導権を起業家に渡し、外部VCの血を入れた。結果的に事業化のスピードは飛躍的に高まり、Honda自身のオープンイノベーションのプレゼンス向上という巨大なリターンを得ている。
第二に、エンジニアの「原体験」を起点としたドリブンである。 「IoTの波に乗る」「MaaS市場を狙う」といった会社都合のトップダウン戦略ではなく、「家族の不便を解消したい」「技術で世界の移動を変えたい」という技術者個人のパッション(内発的動機)を事業の種とした。大企業の新規事業を成功させるのは、市場規模の大小ではなく「やり抜く狂気」を持つ人材の有無である。
第三に、挑戦を無駄にしないカムバックスキームである。 起業のリスクを下げるセーフティネットの構築は、従業員の挑戦のハードルを大きく下げる。失敗したとしても「スタートアップの経営を経験した戦闘力の高い人材」が自社に戻ってくることは、大企業にとって組織の硬直化を防ぐ極めて強力な人材育成(アルムナイ活用)のサイクルとなる。


