課題・背景
三井物産は1876年創業の日本を代表する総合商社であり、世界中にビジネスネットワークを持つ。しかし、商社のビジネスモデルは伝統的に 「つなぐ」(仲介・トレーディング)が中心 であり、ゼロからプロダクトやサービスを「つくる」経験は限定的であった。
既存事業の延長線上では生まれない新たな成長エンジンの創出が経営課題となる中、 社員一人ひとりが持つアイデアや課題意識を事業化するための専門組織 が求められていた。大企業の社内提案制度では「審査して終わり」になるケースが多いが、アイデアを実際のプロダクトにまで育て上げるハンズオンの支援体制は、総合商社としても前例のない試みであった。
取り組みの経緯
三井物産は長期経営計画において 「つなぐ」から「つくる」への進化 を掲げ、2018年8月にベンチャースタジオ「Moon Creative Lab」を設立した。米国シリコンバレーのパロアルトと東京の2拠点体制で始動し、2019年1月から本格的な活動を開始した。
Moonの特徴は、三井物産グループの関係会社も含めた 45,000人以上の社員や組織からアイデアの種を募集 する点にある。「SMAP」と呼ばれるアイデア募集プラットフォームを通じて起案を受け付け、採択されたアイデアオーナーにはデザイナー、エンジニア、プロダクトマネージャーなどの専門チームがつく。アイデアオーナーが一人で孤軍奮闘するのではなく、 プロフェッショナルチームと共にプロダクトを形にしていく 共創型のモデルである。
サービス概要
Moonのベンチャー育成プロセスは、ユーザーリサーチからプロトタイピング、市場投入、スケールまでを一気通貫で支援する。 デザインシンキングとリーンスタートアップの手法を融合 し、仮説検証のサイクルを高速で回すことが基本方針である。
代表的なベンチャーの一つが、赤ちゃんの夜泣き改善サービス 「Lullaby」 である。自らの子育て経験を原体験とした社員が起案し、アプリ、睡眠デバイス、小児スリープコンサルタントの3要素を組み合わせたサービスとして成長した。ピジョンとの業務提携も実現し、育児用品大手との協業により事業基盤を強化している。
2024年からは 外部向けベンチャー育成プログラムの提供 も開始し、Moon自体のノウハウを他社の事業開発部門や起業家にも展開するフェーズに入った。
成果と現状
設立以来、Moonには 459件のビジネスアイデアが寄せられ、うち54のアイデアが事業化 された。総合商社グループの多様な人材と事業領域を背景に、ヘルスケア、教育、農業、金融など幅広い分野でベンチャーが誕生している。
Moonのモデルは、三井物産の長期経営計画における 「つくる」機能の中核 として位置づけられている。個別のベンチャーの成長に加え、Moonを通じて社内に「起業家精神」が浸透する文化的効果も大きい。
この事例から学べること
第一に、「ベンチャースタジオ」モデルが大企業の新規事業創出に有効であるという点である。 単なるアイデアコンテストではなく、専門チームがアイデアオーナーに伴走してプロダクトを共創する仕組みにより、「起案したが実現できない」というボトルネックを解消した。
第二に、アイデアの「母数」が成功確率を決めるという点である。 45,000人という巨大なアイデアプールから459件を集め、54件を事業化した。1件の成功を生むために大量の打席に立つというベンチャー投資の原則を、社内起業にも適用した合理的なアプローチである。
第三に、社内ベンチャーのノウハウ自体が「事業」になるという点である。 Moonは2024年から自社のベンチャー育成メソッドを外部に販売し始めた。インキュベーションのプロセスそのものが知的資産として収益化できることを示した先進的な事例である。


