「このままではJRは倒産する」― 経営トップの危機感
2010年代後半、JR東日本は人口減少による鉄道利用者の長期的な減少という構造的課題に直面していた。新幹線や在来線の運賃収入だけでは成長が見込めない時代が迫りつつあった。
「このままでは国鉄が倒産したように、もう一度JRは倒産してしまう」
――JR東日本のスタートアップ戦略(NewsPicks, 2021年)
冨田哲郎前社長のこの危機感が、JR東日本のオープンイノベーション戦略の出発点となった。2017年4月、まず「JR東日本スタートアッププログラム」を開始。 第1回には237件の応募があり、19件を採択 した。翌2018年2月には100%出資のCVCとして「JR東日本スタートアップ株式会社」を設立し、本格的な外部連携に踏み出した。
7人の同志と50億円ファンド ― CVCの設計
JR東日本スタートアップの初代社長には柴田裕が任命された。7人の同志とともにスタートし、 50億円規模のファンド を組成。投資対象は「乗降客のみなさまのために」「職員のみんなために」という2つの軸に明確に限定された。
「我々は6つの投資領域を定めている。モビリティ、まちづくり、食、エネルギー、農業、ヘルスケアだ。すべて駅や鉄道沿線の生活者に関わる領域である」
――JR東日本スタートアップの投資戦略(MARR Online, 2021年)
出資額は 1社あたり数千万〜数億円 で、2021年までに34社への出資を完了。単なる資金提供にとどまらず、JR東日本グループの駅・車両・沿線インフラを活用した実証実験の場を提供することが最大の差別化要因となった。
「必ず実証実験をする」― 年間200件超の挑戦
JR東日本スタートアップの最大の特徴は、 「必ず実証実験をする」 というルールである。書類審査や面談だけで判断するのではなく、実際に駅や車両で試してみることを必須としている。
毎年 200件超の応募 から約20社を採択し、実証実験を経て事業化を判断する。この「まず試す」という姿勢が、大企業にありがちな慎重すぎる意思決定を打破する鍵となった。4年間の実績として、 923社のスタートアップを検討し、92の実証実験を実施、41の事業を創出 した。わずか8人のチームでこの成果を出した点は特筆に値する。
さらに「逆ピッチ」制度も導入した。通常のアクセラレーターはスタートアップ側がピッチを行うが、JR東日本側が自社の課題を提示してスタートアップに解決策を求めるという、双方向のマッチングを実現している。
鉄道インフラが生む9つの共創事業
JR東日本スタートアップから生まれた事業は多岐にわたる。IoTセンサーのソナス、水産流通のフーディソン、地方創生のヴィレッジインクやさとゆめ、ロボティクスのコネクテッドロボティクスなど、鉄道インフラを起点とした事業が次々と立ち上がった。
「駅という場所は1日に何百万人もの人が通過する。この巨大なインフラを実証実験のフィールドとして提供できることが、我々の最大の武器だ」
――JR東日本のイノベーション戦略(Biz/Zine, 2021年)
事業革新パートナーズとの協業による社内変革支援、コークッキングとのフードシェアリング、ヘラルボニーとの障がい者アート展開、Liberawareとのドローン点検など、 「鉄道会社×スタートアップ」 ならではの事業が創出されている。これらはいずれも「乗降客」か「職員」のためという原点に立ち返った事業である。
この事例から学べること
JR東日本スタートアップの事例は、大企業がCVCを通じてオープンイノベーションを推進する際の設計指針を示している。
第一に、経営トップの危機感と明確なコミットメントが不可欠であるという点である。 冨田前社長の「もう一度倒産する」という強い危機意識が、100%出資CVC設立と50億円ファンド組成を実現させた。トップが本気でなければ、大企業のオープンイノベーションは形骸化しやすい。
第二に、「必ず実証実験をする」というルールが意思決定のスピードを生んだ点である。 書類上の検討に時間を費やすのではなく、まず現場で試すことを必須としたことで、4年間で92の実証実験という圧倒的な数の挑戦が可能となった。8人という少数精鋭チームが年間200件超の応募を処理できたのも、このルールによる効率化の賜物である。
第三に、自社アセットを実証実験のフィールドとして提供することが最大の差別化要因になるという点である。 JR東日本は駅・車両・沿線という巨大インフラを持つ。スタートアップにとって、1日数百万人が利用するフィールドで実証実験ができることは、他のCVCにはない圧倒的な価値である。CVCの成功は資金だけでなく、自社の本業アセットとの連携設計にかかっている。


