課題・背景:「移動弱者」が直面する見えない壁
日本の公共交通機関は世界的に見ても正確で効率的である。しかし、車いすユーザーや視覚障がい者、高齢者にとっては事情が大きく異なる。駅の エレベーター位置 や 段差の有無 、車両の バリアフリー対応状況 といった情報は交通事業者ごとに分断されており、複数の交通機関を乗り継ぐ際には一つひとつの事業者に個別連絡する必要があった。
こうした「 情報の分断 」が移動のハードルを高め、結果として多くの人が外出そのものをあきらめている実態があった。国土交通省の調査では、障がいのある人の約 7割 が公共交通の利用に何らかの困難を感じていると回答している。航空会社であるANAは、空港から先の「ラストワンマイル」問題にも向き合う立場にあった。
取り組みの経緯:祖母の笑顔から生まれたプロジェクト
Universal MaaSの原点は、ANA社員 大澤信陽 氏の個人的な原体験にある。岡山県に住む車いすの祖母が、関東に住むひ孫に初めて会い、「生きてて良かった」と笑顔を見せた瞬間に心を動かされた。「この感動を、もっと多くの人に届けたい。そのために 移動の壁を取り除く 必要がある」と考えたことが起点だった。
2018年7月、ANAの社員発の自主提案活動 「ANAバーチャルハリウッド」 (現・ダビンチキャンプ)の場で、大澤氏は「移動の概念を変え、誰もが自由に移動できる社会を創る」と宣言する。この提案が採択され、2019年7月にはANA企画室内に MaaS推進部 が新設された。個人のアイデアが、正式な組織として制度化された瞬間である。
サービス・事業の概要:交通事業者をつなぐ情報基盤
Universal MaaSの核心は、異なる交通事業者間の バリアフリー情報を一元化 し、移動に困難を抱える人々にシームレスな経路案内と サポートの一括手配 を提供することにある。従来、空港から鉄道、鉄道からバスといった乗り継ぎのたびに個別に連絡が必要だった車いす対応を、 ひとつのアプリ から一括で手配できる仕組みを目指している。
プロジェクトは 産官学連携 のモデルで推進されている。京急電鉄、横須賀市、横浜国立大学といったパートナーとの実証実験を皮切りに、2026年時点で 39団体 がこのエコシステムに参画。2023年にはバリアフリー経路案内サービス「 ユニバーサルマップ/ナビゲーション 」の提供を開始し、横須賀や札幌などの自治体と連携して実用化を進めている。
成果と現状
Universal MaaSは、社員一人の提案から始まり、ANAの正式な事業として 5年以上 にわたり継続されているプロジェクトである。渋谷区との共同実証実験など、都市部への展開も進んでいる。航空会社が「空の移動」だけでなく、ドア・トゥ・ドアの 移動全体をデザイン するという発想の転換は、業界内外から注目を集めている。
ビジネスモデルとしては、交通事業者や自治体との 情報共有基盤の提供 を軸に、データを活用した付加価値サービスの構築を模索している段階である。社会課題解決と収益化の両立という、大企業の新規事業が直面する典型的な課題に取り組んでいる。
この事例から学べること
第一に、「個人の原体験」こそが最強の事業ビジョンになる。 大澤氏の祖母との体験は、どんな市場調査データよりも強い確信と粘り強さをもたらした。社内起業において、起案者が「なぜ自分がこれをやるのか」を語れることは、社内の協力者を集める最大の武器である。
第二に、航空会社という「ハブ」のポジションを活かした共創設計が秀逸である。 鉄道・バス・タクシー・自治体など多数のステークホルダーを束ねるには、各社と既存の取引関係を持つ航空会社が最も自然な立場にある。自社の強みを「技術」ではなく「つなぐ力」として再定義した点が優れている。
第三に、社内提案制度から専門部署への「昇格プロセス」が制度として機能している。 バーチャルハリウッドでの採択が単なるコンテスト表彰で終わらず、MaaS推進部の新設という組織的なコミットメントにつながった。提案制度の「出口」を事前に設計しておくことの重要性を示す事例である。


