課題・背景:「販売会社」から「価値創造企業」への転換
キヤノンマーケティングジャパン(キヤノンMJ)は、キヤノン製品の国内販売・マーケティングを担うグループ企業である。しかし、複合機やカメラといったハードウェア市場の成熟化に伴い、「メーカーの販売代理」という従来の位置づけでは成長に限界があった。
キヤノンMJグループには約 1万人 の社員が在籍し、その多くが法人顧客と日々接する中で、市場のニーズや課題を直接把握している。この 現場知 を新しい事業価値に変換する仕組みの構築が、経営課題として認識されていた。「販売会社」から 「新たな価値を創出する企業」 への脱皮を図る中で、社内起業プログラムの導入が決定された。
取り組みの経緯:アカデミーとプログラムの二段構造
キヤノンMJは2017年に社内起業プログラム 「Canon i Program」 を開始した。これまでに 約150名 の社員が参加し、事業アイデアの創出から検証、事業化までを支援する仕組みが構築されている。
社内選考を通過したチームには、外部の 事業開発アクセラレーター が伴走する。 3ヶ月間 の集中期間で仮説検証を繰り返し、事業案の精度を高めて最終選考に臨む。この「期限を区切った高密度な検証」が、アイデア止まりで終わらせない推進力を生んでいる。
さらに2020年には 「イノベーションアカデミー」 を設立した。 アート思考 や デザイン思考 を活用したワークショップ、実践的なアウトプットを行うプログラムを通じて、イノベーションに必要な「スキル」と「マインド」を体系的に育成する場である。アカデミーで土台を築き、Canon i Programで実践するという 二段構えの設計 が、新規事業創出の再現性を担保している。
サービス・事業の概要:頭痛セルフケアアプリ「ヘッテッテ」
Canon i Programから生まれた代表的な成果が、頭痛セルフケアサポートアプリ 「ヘッテッテ」 である。2025年2月21日にiOS/Android向けに無料で提供が開始された。
起案したのは、自身も慢性的な頭痛に悩む社員だった。「 頭痛じゃない日を変えていく 」をコンセプトに、20代から40代の女性をメインターゲットとして、日々の頭痛状況の記録と セルフケアの習慣化 をサポートする。天気や生活習慣との相関分析や、頭痛の傾向把握を通じて、発症を未然に防ぐことを目指している。
開発過程で特筆すべきは、 グループ社員のべ550人 が試作版アプリのテストに参加したことだ。頭痛持ちの社員が自らユーザーとして日々の記録やアンケートに協力し、製品の改善に直接貢献した。このプロセスは単なるベータテストを超え、社内に事業への 共感と当事者意識 を広げる効果を持った。
成果と現状
Canon i Programは2017年の開始以降、継続的に運用されている。ヘッテッテ以外にも複数の事業案が検証プロセスを経ており、キヤノンMJグループの新規事業創出基盤として定着しつつある。
イノベーションアカデミーとの連携により、「事業案を出す人材」の母集団が継続的に育成されている点が、他社の社内起業プログラムとの差別化要因である。単発のビジネスコンテストで終わらせず、 人材育成と事業創出を一体的に設計 する思想が、プログラムの持続性を支えている。
この事例から学べること
第一に、「育成の場」と「実践の場」を分離・連携させることで、新規事業創出の再現性が高まる。 イノベーションアカデミーでスキルとマインドを醸成し、Canon i Programで実際の事業化に挑むという二段構えは、イノベーション人材の「パイプライン」を組織的に構築する手法として優れている。
第二に、社員自身がユーザーとなる事業は、検証の速度と深度が桁違いに高い。 ヘッテッテの開発で550人の社員がベータテスターとなったことは、外部のユーザーテストでは得られない迅速かつ率直なフィードバックを可能にした。「自分たちの課題を自分たちで解決する」という構造が、開発速度を加速させた。
第三に、アクセラレーターの伴走と期限設定が、「アイデア止まり」を防ぐ。 3ヶ月という明確な期限の中で外部の専門家と集中的に仮説検証を行う仕組みは、大企業にありがちな意思決定の遅延を回避し、事業案を素早くブラッシュアップする効果を持つ。


