「若者のクルマ離れ」という構造的課題
日本の自動車市場は、少子高齢化と都市部への人口集中によって構造的な変化を迎えている。「若者のクルマ離れ」という言葉が定着して久しく、20代〜30代の自動車保有率は年々低下傾向にある。
背景には、クルマの「所有」にかかるコストの高さがある。車両本体価格に加え、税金、保険、車検、メンテナンス、駐車場代と、維持するだけで年間数十万円の固定費が発生する。初期費用は車両価格の10〜20%に及び、200万円のクルマを購入するなら最低でも220万円以上が必要となる。
こうした所有コストの重さは、可処分所得が伸び悩む若年層にとって大きな参入障壁となっていた。自動車メーカーにとっては、将来の顧客基盤の縮小を意味する深刻な課題である。
豊田章男の「筋斗雲」構想
2018年、トヨタ自動車は「自動車メーカーからモビリティカンパニーへの変革」を宣言した。単にクルマを製造・販売するのではなく、人の移動に関わるあらゆるサービスを提供する企業への転換である。
その具体的な第一歩として、2019年1月にトヨタファイナンシャルサービスと住友三井オートサービスの出資により「株式会社KINTO」が設立された。社名の由来は、孫悟空の「筋斗雲(きんとうん)」である。
「クルマが欲しくなったら簡単にクルマライフをスタートし、違うクルマに乗りたくなったら乗り換え、不要になったら返却する。必要な時にすぐに現れ、思いのままに移動できる、まさに『筋斗雲』のように使っていただきたいと考え、『KINTO』と名付けました」
――トヨタ、新会社「KINTO」を設立 愛車サブスクリプションサービスを展開(日本経済新聞, 2019年2月)
2019年2月のトライアル開始からわずか5か月後の7月には全国展開を開始。わずか1年で構想から事業化まで駆け抜けたスピード感は、当時の豊田章男社長の強い危機意識と後押しがあったからこそ実現したものである。
「コミコミ定額」が変えたクルマとの関係
KINTO ONEの基本コンセプトは明快である。車両代金、税金、保険(任意保険・車両保険を含む)、メンテナンス費用、さらには代車まで、クルマに関するあらゆる費用を月々の定額料金に包含する。
契約期間はトヨタ車で3年・5年・7年、レクサス車で3年。WEBで申し込み後、販売店でクルマを受け取るだけで利用を開始できる。頭金・ボーナス払いなしの「初期費用フリープラン」により、貯蓄のない若年層でもクルマのある生活を始めやすい設計となっている。
契約期間中にライフスタイルが変わった場合には、「のりかえGO」という仕組みで割安な手数料で別のクルマに乗り換えることも可能。結婚や出産といった人生の転機に合わせて、柔軟にクルマを変えられる。
「『クルマのサブスク』についてうかがったところ、ミレニアル世代の4割以上が検討する一方で、シニア世代においても4人に1人が検討を示しました。スマートなクルマの持ち方として、『サブスク』が徐々に浸透してきたことがうかがえました」
――KINTOが実施したクルマのサブスク意識調査(KINTO公式note)
6年の赤字を経て初の黒字化を達成
新規事業としてのKINTOの道のりは決して平坦ではなかった。サブスクリプションモデルは、顧客獲得の先行投資が必要なため、事業初期は構造的に赤字が続く。KINTOも設立から5年以上にわたり累積赤字を積み重ね、2023年度には約50億円の最終赤字を計上していた。
しかし2025年3月期(第7期)の決算で、ついに転機が訪れた。 売上高587億700万円(前年比40%増)、最終損益7億9,500万円の黒字を達成し、 創業以来初の黒字化 を果たしたのである。
「KINTOが創業以来初の黒字化を達成」
――トヨタ系「車のサブスク」KINTO、初の最終黒字 若者浸透で累計14万件(日本経済新聞, 2025年6月)
2024年12月末時点の 累計申込件数は約13.7万件。ユーザーの年代構成は18歳〜30代が約4割、40代〜50代が約4割、60代以上が約2割と幅広い層に浸透している。個人・法人比率は個人が約8割で、当初ターゲットとしていた若年層への浸透が黒字化の大きな推進力となった。
サブスクを超えるモビリティプラットフォームへ
KINTOは車のサブスクリプションにとどまらず、モビリティサービスのプラットフォームへと事業領域を拡大している。
2021年4月には、クルマに関連する多様なサービスを集約したオンラインプラットフォーム「モビリティマーケット」を開設。2024年5月にはSUBARU車も選べる「SUBARU×KINTO」を開始し、自社グループの枠を超えた展開を見せている。
既販車のソフトウェアやハードウェアを最新の状態に進化させる「KINTO FACTORY」、AIがおでかけスポットを提案するアプリ「Prism Japan」、福祉車両サブスク「KINTO care」など、サービスの多層化も進む。
「所有から利用へ」という単純な構造転換ではなく、クルマを中心とした生活体験全体を設計するモビリティプラットフォーマーへの進化が、KINTOの長期戦略である。
この事例から学べること
KINTOの事例は、大企業が自らの主力事業のビジネスモデルを変革する「自己破壊型イノベーション」の実践例である。
第一に、トップのコミットメントと危機感の共有である。 豊田章男社長(当時)自らが「モビリティカンパニーへの変革」を宣言し、その具体策としてKINTOを位置づけた。トップの本気度が、構想から1年での事業化というスピードを可能にした。新規事業が既存の販売チャネルと衝突する局面でも、トップのコミットメントがあるからこそ組織的な抵抗を乗り越えられる。
第二に、6年間の赤字に耐える「忍耐の投資」である。 サブスクリプションモデルは初期の顧客獲得に先行投資が必要であり、損益分岐点に到達するまでに時間がかかる。累積赤字を許容しつつも段階的にサービスを改善し続けた結果、売上高587億円・黒字化という成果にたどり着いた。大企業の新規事業に求められる「忍耐の資本」の重要性を示している。
第三に、サブスクリプションを「入口」とした事業ポートフォリオの構築である。 車のサブスクだけでは差別化が困難な市場において、モビリティマーケット、KINTO FACTORY、Prism Japanといった周辺サービスを展開することで、顧客のライフタイムバリューを最大化し、解約率を低下させる戦略を採っている。サブスクリプション事業の成功には、単一のサービス提供ではなく、エコシステム全体の設計が不可欠であることを示す事例である。


