課題・背景:「薬局なのに薬がない」という見えていた問題
調剤薬局には、慢性的な在庫管理の困難がある。患者が処方箋を持って訪れた際に、必要な薬が棚に在庫していないという事態は、薬剤師・患者双方にとって大きなストレスを生む。「薬局なのに薬がない」という逆説的な状況は、薬局業界では珍しくない現実であった。
背景には、薬品の種類の多さと需要予測の難しさがある。調剤薬局が取り扱う薬品数は数千〜数万種に及ぶが、各薬品の需要は地域・季節・処方医師の傾向などに左右され、単純な販売実績からの予測が困難である。過剰在庫は廃棄コスト・保管コストを生み、過少在庫は患者への提供機会損失と薬剤師業務の複雑化を招く。薬品在庫の「ロングテール問題」として認識されながら、業界全体として体系的な解決策が存在していなかった。
キリンホールディングスの田中吉隆氏がこの課題に着目したのは、2019年の社内新規事業コンテスト「キリンビジネスチャレンジ」への応募準備中のことである。薬局の課題と自身のアイデアが交差する地点として、AI技術を活用した薬品在庫の最適化サービスという事業仮説を設定した。
取り組みの経緯:「売れない」経験が方向を変えた
2019年のキリンビジネスチャレンジへの提案採択後、田中氏は事業化に向けた検証を開始した。しかし当初の期待とは裏腹に、想定していた顧客には全くサービスが届かなかったという時期が続いた。事業仮説の妥当性を確認するためのインタビューと実証実験を繰り返す中で、当初設定した課題の定義自体を問い直す必要が生じた。
薬剤師への徹底的なインタビューを重ねる中で、課題の本質として浮かび上がったのが「棚に薬がない」という問題であった。薬剤師が最も困っているのは在庫管理の作業負担ではなく、必要な時に必要な薬が手元にないという、サービスの根幹に関わる問題であった。この気づきを起点に、サービスの設計をAI在庫最適化→AI置き薬サービスへと再定義するピボットが行われた。
「置き薬」という江戸時代から続く日本独自のビジネスモデル——薬品を事前に預け、使った分だけ後払いする仕組み——をAIと組み合わせることで、「棚に薬がない」問題を構造的に解決するサービスが「premedi」として結実した。薬局側は在庫リスクを持たずに必要な薬品を棚に置けるようになり、薬剤師は在庫管理の煩雑さから解放される。
顧客への向き合いを繰り返した結果、事業は前年比2倍の成長を記録した。「売れない」という失敗経験が課題発見の源泉となった典型的なリーンスタートアップの実践事例として、社内外で注目されるようになった。
サービス・事業の仕組み:AIが「何が必要か」を予測する
premediのサービスの核心は、AIによる薬品需要予測と自動補充の仕組みにある。個々の薬局の処方実績・地域特性・季節変動などのデータをAIが分析し、各薬局に必要な薬品の種類と量を予測する。予測に基づいて必要な薬品を事前に薬局の棚に置き、実際に使用された分だけを後払いで請求する「置き薬」モデルを採用している。
薬局側のメリットは複数ある。棚に常に必要な薬品が在庫された状態が保たれることで、患者への提供機会損失が激減する。在庫リスクを抱えることなく多様な薬品を揃えられるため、薬局としての付加価値が高まる。薬剤師の在庫管理業務負担が軽減し、本来業務である薬剤指導・患者ケアへの時間を確保しやすくなる。
2024年には、キリンホールディングスと協和キリンの共同出資による新会社Cowellnex株式会社が設立され、premediの運営を担う独立事業体として分離した。親会社のリソースを活用しながら、独立した経営判断の速度を確保する構造が整備されている。
成果と現状:大賞受賞と2兆円市場への挑戦
premediは2025年5月に「第2回日本新規事業大賞 by Startup Japan 2025」において大賞を受賞した。数百社の新規事業提案の中から選ばれた大賞は、単なる話題性ではなく事業としての成果と社会的インパクトが評価されたものである。
薬局向けAI置き薬市場は、日本国内だけで2兆円規模のポテンシャルを持つとされる。調剤薬局は全国に約6万店舗存在し、在庫課題は業界全体が抱える構造問題である。premediはこの市場に対して、ヘルスケア専業企業ではなく食品・飲料メーカー発の新規事業として参入・定着した点で異例の存在感を持つ。
この事例から学べること
田中氏が「売れない」期間に撤退しなかったことを、「強い信念」と読むのは正確ではない。正確には「顧客に会い続けた」ことだ。信念があったから続けたのではなく、インタビューを重ねるうちに「本当の課題」が見えてきた。その意味で、premediの成功は田中氏の執念よりも、彼の「問い続ける行動」が生み出したものといえる。
もう一点。キリンという食品メーカーからヘルスケアへの越境を可能にしたのは、「キリンだから何ができるか」を考えなかったからだ。薬局・薬剤師の困りごとから逆算した結果、たまたま食品メーカーが担い手になった——その順序が重要である。「自社の強みを活かせる市場を探す」発想の大企業が多い中で、premediが示したのは逆の順序の有効性だった。