その日の肌に合わせた「8万通り」の調合
「Optune(オプチューン)」は、日本屈指の化粧品メーカーである資生堂が2019年に本格稼働させた、IoT(モノのインターネット)を活用したパーソナライズ・スキンケア事業である。資生堂にとって初の本格的なサブスクリプション(定額制)サービスとしての挑戦であった。
現代の働く女性の肌は、日々の天候(紫外線や湿度)といった「外的要因」と、ストレスや睡眠不足、生理周期といった「内的要因」によって、毎日複雑に変化している。にもかかわらず、多くの女性は「昨日と同じ化粧水」を使わざるを得ず、また毎日のスキンケアに時間をかける余裕もないという深いペイン(悩み)を抱えていた。
この課題に対し、Optuneは**「肌が毎日変わるなら、基礎化粧品も毎日変わるべき」**というコンセプトに行き着く。 専用のスマートフォン(iPhone)アプリでその日の肌状態を撮影・測定し、取得した睡眠データや地域の気象データと掛け合わせ、独自のアルゴリズムで分析。そのデータが自宅に置かれた「専用のIoT抽出マシン」へと送信され、マシン内に装填されたカートリッジから、その時々の肌に最適な美容液と乳液が(8万通り以上の組み合わせの中から)プッシュボタン一つで抽出されるという、極めて近未来的な顧客体験を構築した。
「ボトル売り」から「サブスクリプション」への飛躍
Optuneの事業モデルにおける最大のイノベーションは、化粧品ビジネスの収益構造の根幹である「売り切り(ボトル売り)モデル」を、デジタルの力で**「継続課金・サービス提供(サブスクリプション)モデル」へとトランスフォーメーションした**点にある。
ユーザーはOptuneを「月額1万円(税抜)」で利用する。マシンのレンタル料、日々の肌測定アプリの利用料、そして抽出される専用化粧品カートリッジの代金が含まれており、IoTマシンが残量を自動検知して「化粧品がなくなる前に自宅に新しいカートリッジが自動配送される」仕組みまでが組み込まれている。
「化粧水を買いにいく手間」すら無くし、顧客の洗面所(ラストワンマイル)をハードウェアで物理的に占有し続けるという、デジタル時代の極めて強力なLTV(顧客生涯価値)囲い込み戦略である。
アジャイル開発と顧客データの資産化
資生堂ほどの巨大メーカーが、これほど前衛的なハードウェア込みの新規事業を立ち上げられた背景には、「PoC(概念実証・テスト)」を前提としたアジャイルな開発プロセスがあった。 2019年の本格展開前の2018年時点で「β版」を数量限定で市場へ投入し、実際の利用者の声をもとにアプリのUIから抽出マシンの静音性まで、徹底的な製品研磨を行ったのである。
さらに、Optuneが資生堂にもたらしたもう一つの巨大な価値が「データの資産化」である。 従来の店頭販売モデルでは、「販売した化粧品がその後、顧客の自宅でいつ・どのように・どんな肌状態の時に使われているか」は完全にブラックボックスであった。しかしOptuneのIoTマシンは、これら全ての利用ログを資生堂のクラウドにリアルタイムで吸い上げる。この「購入後の生きた顧客データ」群は、資生堂の次なる商品開発やマーケティング精度を劇的に引き上げる、お金では買えない資産となったのである。
この事例から学べること
Optuneの事例は、日用品や消費財メーカーが「モノ売りからコト売りへ」と事業モデルを転換(DX)する際の金字塔である。
第一に、ハードウェア(IoT)による「顧客の日常への空間的侵入」である。 スマートフォンのアプリだけでは、他社サービスへの乗り換えは一瞬である。しかし自宅の洗面所に物理的な「専用マシン」を置かせることで、スイッチングコスト(乗り換え障壁)を異常なまでに高めた。究極の顧客ロックイン戦略である。
第二に、「化粧水を選ぶ」という行動自体のアンバンドルである。 ドラッグストアで複数の化粧水から自分に合うものを選ぶという、本来「楽しい」はずの購買体験が、多忙な現代女性にとっては「面倒くさい作業(ジョブ)」に変わっていた。Optuneはその作業をAIとアルゴリズムに完全に代替させ、「時短」という強力な付加価値を提供した。
第三に、本業の「データ基盤」としての新規事業の役割である。 Optune単体での黒字化以上に、「顧客が基礎化粧品を消費するリアルなタイミングや環境要因」という、全社的なR&D(研究開発)に直結するビッグデータを獲得する「センサー」としての事業価値が極めて高い。大企業の新規事業は、単独のP/L(損益)だけでなく、本業へのリターン(知見の還流)も含めて評価されるべきである。


