住み替えの自由を阻む「初期コスト」の壁
リモートワークの普及により、働く場所の選択肢は格段に広がった。しかし、「住む場所」の自由度はそれに追いついていない。賃貸住宅の契約には敷金・礼金・仲介手数料などの初期費用がかかり、短期の住み替えには経済的なハードルが高い。
ホテルの長期滞在という選択肢はあるものの、1泊あたりの料金が高く、30泊・60泊ともなれば月額家賃を大きく上回る。「旅するように暮らしたい」というライフスタイルへのニーズは存在するが、それを手軽に実現する手段がなかったのである。
この構造的な課題に、東急グループ内部から新しい解決策が提案された。それが定額制宿泊サービス「TsugiTsugi(ツギツギ)」である。
元経理担当者の7年間 ― 税制改正から生まれたアイデア
TsugiTsugiの発案者は、東急で経理業務を担当していた川元一峰である。着想のきっかけは、意外にも2016年の税制改正であった。通勤手当の非課税枠が見直されたことをきっかけに、「住まいと職場の関係」について深く考えるようになったという。
「空き家を活用した多拠点居住サービスは既に存在するが、ホテルでも同じことが実現できるのではないか」。このアイデアを東急ホテルズの社長(当時)に提案したところ、「いいね、すぐやろう」と即座に承認された。
「税制改正をきっかけに、ライフスタイルを見直す。東急の社内ベンチャー『TsugiTsugi』の誕生秘話。元経理担当が事業を立ち上げ、ヒットさせるまでの7年間」
――TsugiTsugiの誕生秘話(PR TIMES STORY, 2023年7月)
TsugiTsugiは東急の社内起業家育成制度の第6号案件として正式に採択された。この制度は部署・年齢・役職を問わず誰でも新規事業を提案でき、採択されれば社内ベンチャーとして自ら事業を推進できる仕組みである。経理担当という「事業開発の経験ゼロ」の人材が、 7年をかけて構想をヒット事業に育て上げた。
実証実験4回で磨き上げたサービス設計
TsugiTsugiは2021年4月に第1回の実証実験を開始し、 計4回の実証 を重ねてサービスを磨き上げた。
当初は30連泊や60連泊という長期連泊型でスタートしたが、実験を通じて意外な顧客インサイトが見えてきた。利用者の多くは「毎日ホテルに泊まりたい」わけではなく、「月に数回、気分転換に違う場所で過ごしたい」というニーズを持っていたのである。
このインサイトを受けて、2023年の正式事業化時には「えらべる2」(30日間で2泊)という新プランを導入。従来の「まいにち30」(30連泊)に加え、月に2泊だけ好きなタイミングで利用できるライトなプランが生まれた。この「えらべる2」が爆発的な人気を獲得し、事業規模を飛躍的に拡大させることになる。
「長期にわたる期間制約や初期費用・手数料といった住み替えのハードルを軽減し、自由な移動やその土地での暮らしを実現する。日本全国をツギツギと巡り、その場所が『ただいま』と帰る場所になることを目指す」
――定額制回遊型宿泊サービス「TsugiTsugi」を正式事業化(東急 プレスリリース, 2023年5月)
正式事業化と急成長 ― 会員8万5000人突破
2023年5月、TsugiTsugiは東急の正式事業として承認された。実証実験から約2年を経ての事業化決定である。
正式事業化と同時に、法人向けプランの販売やChatGPTを活用したAI旅先提案機能も導入。出張コスト削減やワーケーション促進のニーズに応える法人プランは、50社を超える企業が導入した。
対象宿泊施設は都市型ホテル、リゾートホテル、温泉旅館、グランピング施設など多彩なカテゴリーに拡大。北は稚内から南は石垣島まで、 全国300以上の宿泊施設 と提携している。2024年にはアコーグループの「グランドメルキュール」「メルキュール」国内22施設も参画し、選択肢はさらに広がった。
サービス開始から1年強で 会員数は8万5000人 に到達。平日限定(日曜~木曜)の宿泊という制約をあえて設けることで、ホテル側にとっては稼働率の低い平日の客室を有効活用でき、利用者にとっては割安な定額料金で宿泊できるという、双方にメリットのある設計が成長を支えている。
航空会社との連携も進み、ANA SKYコインの特典付与やPeachとの提携など、移動と宿泊をセットで提供する体験設計を拡充している。
この事例から学べること
第一に、実証実験を通じた顧客インサイトの発見である。 当初の長期連泊型から「月2泊」のライトプランへの転換は、仮説ではなく実際の利用データから導かれた判断であった。顧客が本当に求めているものは、サービス提供者の想定とは異なることが多い。実証実験を「検証の場」として機能させ、柔軟にサービス設計を変更できる体制が成長の鍵となった。
第二に、「バリ専」ではない人材の強みである。 発案者は経理出身で事業開発の経験がなかったが、だからこそ業界の常識にとらわれない発想ができた。社内起業家育成制度において、事業開発経験の有無よりも、課題への強い当事者意識と粘り強さが重要であることをこの事例は示している。
第三に、プラットフォーム型のWin-Win設計である。 平日限定の宿泊という制約は、ホテルの「空いている部屋を埋める」ニーズと利用者の「安く泊まりたい」ニーズの両方を満たす設計である。サブスクリプションモデルでは、提供者と利用者の双方にメリットがある構造を設計することが持続的成長の条件となる。


