課題・背景:医療措置を必要とする高齢者の移動の不便
高齢化が進む日本では、 医療措置を必要とする高齢者の移動 が深刻な社会課題となっている。一般のタクシーは医療設備を持たず、痰吸引や酸素吸入が必要な利用者を運ぶことができない。一方、医療系移動サービスは通院に限定されるケースが多く、 買い物やレジャーといった私的な用事 には対応していない。
ウエルシア薬局の薬剤師である 井田徹氏 (当時59歳)は、店頭で接する患者の中に、こうした移動の不便で日常生活が制限されている高齢者が多くいることを実感していた。同時に、井田氏自身も12年前にパーキンソン病を患った父親の介護を経験しており、 医療措置と日常生活の両方をカバーする移動サービスの不在 を身をもって知っていた。
取り組みの経緯:59歳の薬剤師が立ち上げた事業
井田氏は、ウエルシアの社内ベンチャー制度に応募する形で 介護タクシー事業 の企画を提出した。50代後半という、社内ベンチャー制度では珍しい年齢層からの提案だ。
ウエルシアの社内ベンチャー制度は、年齢や所属を問わず、現場の課題意識から立ち上がる事業提案を取り上げる仕組みとして運用されている。井田氏の提案は、薬剤師として店頭で蓄積してきた患者の声と、個人の介護経験を組み合わせた 「現場の専門知 × 個人体験」 の構造を持っていた。
「ドラッグストアを拠点に、体が不自由な人でも安心して移動できるサービスを広げていきたい」
――井田徹(東洋経済オンライン、2026年4月)
提案を受けたウエルシアは、ドラッグストア事業との隣接性、社会課題としての切実さ、薬剤師の専門性を活かせる事業設計などを評価し、事業化を決定した。
サービス・事業の仕組み:医療措置対応の介護タクシー
2025年春、ウエルタクは ウエルシアグループ初の旅客運送サービス として始動した。サービスの最大の特徴は、 看護師や救命救急士が乗降サポートのために同乗する 点にある。痰吸引や酸素吸入といった医療措置が必要な利用者にも対応できる設計だ。
利用シーンは 通院だけに限定されない 。買い物、家族の集まり、レジャーなど、医療措置を要する高齢者が普段あきらめていた私的用事にも対応する。一般のタクシー(医療対応不可)と医療系移動サービス(通院専用)の中間に位置する独自のポジショニングを取っている。
ドラッグストア店舗を拠点として運用することで、薬剤師による薬の受け渡しや健康相談との組み合わせも視野に入る。ウエルシアの店舗ネットワークと連動した 地域生活インフラ型のサービス として設計されている。
この事例から学べること
第一に、新規事業の出発点は「個人体験」と「本業の専門性」の交点に潜む。 井田氏のウエルタクは、パーキンソン病の父親介護という個人体験と、薬剤師として店頭で患者と接してきた職業経験が交わる地点から立ち上がった。 机上の市場調査では拾えない実体験ベースのインサイト が、競合と差別化される事業設計を生む。
第二に、社内ベンチャー制度は年齢を問わず運用すべきだ。 50代後半・薬剤師という、一般的な社内ベンチャー像から外れる属性の提案者から事業が生まれた事実は、提案受け付け対象を年齢で絞らない制度設計の重要性を示している。長年の現場経験から生まれる事業構想は、20代・30代起業家には見えない領域に踏み込める強みを持つ。
第三に、本業隣接領域の事業は、本業の資産を活用できる。 ドラッグストア × 介護タクシーという組み合わせは、店舗ネットワーク・薬剤師の専門性・地域コミュニティとの接点という本業資産をそのまま活用できる構造を持つ。本業から遠い新規事業より、 本業の隣接で本業資産を増幅する事業 のほうが、立ち上げ初期の優位性を確保しやすい。
関連項目
参考文献・出典
- 東洋経済オンライン「ウエルシアが介護タクシー事業に参入、50代後半で社内ベンチャー制度に応募した薬剤師」https://toyokeizai.net/articles/-/869508