写真フィルム市場の「消滅」という存亡の危機
2000年代初頭、デジタルカメラとスマートフォンの普及により、写真フィルム市場は急速に縮小した。富士フイルムの主力事業であったカラーフィルムの世界総需要は、2000年をピークに 年率20〜30%のペースで減少 し、文字通り「市場が消滅する」事態に直面した。
この危機に際し、2003年に社長に就任した古森重隆は、全社的な 「技術の棚卸し」 を断行した。富士フイルムが保有する技術資産を徹底的に洗い出し、写真フィルム以外の市場に転用できる可能性を探ったのである。
その結果、化粧品市場への参入という一見突飛に見える戦略が浮上した。写真フィルムと人間の肌には、意外な共通点があったのである。
4つの技術的共通点 ― フィルムと肌の接点
写真フィルムの主原料はコラーゲンである。フィルムの約半分を占めるゼラチンはコラーゲンから作られており、富士フイルムは創業以来80年以上にわたりコラーゲンの性質を研究し続けてきた。コラーゲンは同時に、人間の肌のハリや弾力を支える主要成分でもある。
「写真フィルムの半分は、肌の主成分と同じコラーゲンです。富士フイルムは、写真を美しいまま残すため、長年かけてコラーゲンのメカニズムを解明してきました」
――ASTALIFT MEN公式サイト サイエンスページ(富士フイルム)
技術の棚卸しで見出された共通点は4つある。
1つ目は「コラーゲン研究」。フィルムの品質管理で蓄積したコラーゲンの知見は、肌のエイジングケアに直結する。
2つ目は「ナノテクノロジー」。写真フィルムでは、微粒子を決められた場所に安定的に届ける精密な塗布技術が不可欠である。この技術は、美容成分を肌の角層の隙間にスピーディに浸透させる技術へと転用された。
3つ目は「抗酸化技術」。写真プリントの色あせの原因は紫外線による酸化であり、富士フイルムはこれを防ぐために 4,000種以上の抗酸化成分 を研究してきた。肌の老化もまた酸化が主因であり、この知見は直接応用可能であった。
4つ目は「光解析・コントロール技術」。光の波長を精密に制御する写真技術は、紫外線防御の化粧品開発に活かされた。
2006年参入、4年で売上100億円
富士フイルムは2006年に化粧品市場へ参入し、2007年にエイジングケアブランド「アスタリフト」を発売した。ブランド名は、主要成分であるアスタキサンチンに由来する。
参入当初は通信販売からのスモールスタートであったが、売れ行きは予想を上回った。コアターゲットの40代女性は、フィルム写真に親しんだ世代であり、「富士フイルム」という社名への信頼感がブランド構築の追い風となった。
「機能価値を可視化して見せると、女性の顧客は自分の肌と重ねてイメージし、ほかのメーカーにはない富士フイルムならではの感性価値を感じてもらえる。『なるほど、富士フイルムだからできるんだ』と」
――アスタリフト/富士フイルム取材記事(Works, リクルートワークス研究所)
2010年度には化粧品事業の売上が100億円を突破。2012年度には135億円に到達し、化粧品業界においても存在感のあるブランドとしての地位を確立した。
ターゲット拡大とメンズ市場への展開
アスタリフトは当初40〜50代女性をコアターゲットとしていたが、2016年以降はユーザー層の拡大に動いた。
予防意識の高い20〜30代を新たな顧客層として取り込むため、テレビCMや交通広告に若年層に訴求力のある女優を起用し、ブランドイメージの刷新を図った。
「富士フイルムはアスタリフトの新製品をテコに、予防意識の高い20〜30代も新たな顧客層として取り込む。エイジングケアに関心がある『潜在ターゲットの獲得を目指す』狙いだ」
――40-50代が既存顧客のエイジングケア化粧品を若者にも(ニュースイッチ, 日刊工業新聞)
さらに2019年には男性用スキンケアシリーズ「アスタリフト メン」を発売し、メンズ市場にも参入した。同じ技術基盤を横展開することで、投資効率を高めながら市場を拡大する戦略である。
この事例から学べること
アスタリフトの事例は、大企業の新規事業開発における「技術転用」の模範例として、3つの重要な教訓を示している。
第一に、「技術の棚卸し」 が異業種参入の突破口になるという点である。 富士フイルムは自社技術を抽象化し、既存市場とまったく異なる領域への適用可能性を探った。コラーゲン、ナノテクノロジー、抗酸化技術という一見「フィルム専用」に見える資産が、化粧品市場で圧倒的な差別化要因となった。技術の棚卸しは、イノベーション戦略の基本動作として他の企業にも応用可能である。
第二に、「企業名ブランド」を武器にする勇気である。 化粧品に「富士フイルム」の名を冠することには社内でも議論があったとされる。しかし、技術力への信頼を直接ブランド価値に転換するという判断が、後発参入にもかかわらず短期間で認知度を獲得する結果につながった。
第三に、スモールスタートから段階的にスケールする事業展開の設計力である。 通販からの参入で初期投資を抑え、PMFを確認してから店頭販売・ターゲット拡大・メンズ展開と段階的に投資を拡大していった。この慎重かつ大胆な展開が、4年で100億円という成長を支えた。


