「噛む」を測る ― 日常行動のデータ化への挑戦
「 bitescan(バイトスキャン) 」は、シャープが開発した耳掛け式の咀嚼計(そしゃくけい)である。耳に装着するだけで食事中の 噛む回数・速度・リズム をリアルタイムに計測し、スマートフォンアプリで食行動を可視化するウェアラブルデバイスである。
開発を主導したのはシャープの若手研究者であった。「健康は食事から」という当たり前の命題に対して、「何を食べるか」は記録できても「 どう食べるか(咀嚼行動) 」を客観的に計測する手段は存在しなかった。しかし咀嚼(噛むこと)は消化吸収の効率、過食防止、認知機能の維持など、健康に広範な影響を及ぼすことが医学的に知られている。この「計測の空白」を埋めるデバイスの開発に着手した。
新潟大学との産学連携が生んだ科学的基盤
bitescanの開発は、2017年に始まった 新潟大学歯学部 との共同研究を基盤としている。同大学の小野高裕教授・堀一浩准教授らとの連携により、「ウェアラブルデバイスを用いた咀嚼行動の変容による効果」に関する研究が進められた。
この産学連携には2つの戦略的意味がある。第一に、「噛むことが健康に良い」というエビデンスを科学的に積み上げることで、製品の存在意義を医学的に裏付けた。第二に、歯学・医学分野の研究者が「正確な咀嚼データを簡便に取得できるツール」を切望していることを発見し、 研究者という初期顧客層 を特定した。
意外な市場 ― アカデミックが先行した理由
bitescanの開発チームは当初、「ダイエット」「美容」「食育」「高齢者ヘルスケア」の4つの顧客ニーズを想定していた。しかし市場に出してみると、最も強い引き合いが来たのは 研究者や歯科医師 であった。
従来、咀嚼の回数を計測するには動画を撮影して手作業でカウントするしかなく、膨大な時間がかかっていた。bitescanはこの「研究上のペイン」を劇的に解消するツールとして、アカデミック市場で最初のプロダクト・マーケット・フィット(PMF)を達成したのである。
この「意外な初期市場」の発見は重要である。一般消費者向け市場(BtoC)は認知獲得に巨額の投資が必要だが、研究者というニッチ市場では口コミと論文が最強のマーケティングとなる。アカデミック市場で信頼性を確立してから、一般市場へと展開するという段階的な市場浸透戦略が機能した。
成果と現状
bitescanは2020年度「 グッドデザイン・ベスト100 」を受賞した。「噛むを計り、気づき、行動を変えるヘルスケアサービス」というコンセプトが、デザイン性と社会的意義の両面で高く評価されたものである。
事業展開は多方面に広がっている。2022年には 福岡市・ロッテ・新潟大学・九州大学 との共同プロジェクトに参画し、咀嚼力アップによる健康維持を目的とした産官学連携を推進。2024年には大阪府 八尾市 との連携で、bitescanを活用した 児童向け食育プロジェクト にも取り組んでいる。生活習慣病予防、介護施設でのフレイル予防、子どもの食育と、活用領域は着実に拡大している。
この事例から学べること
第一に、「当初想定していなかった市場」にPMFが存在する可能性である。 bitescanはBtoC(ダイエット・美容)を狙って開発されたが、最初にPMFを達成したのはアカデミック市場であった。新規事業では「誰が最も切実にこの製品を必要としているか」を固定概念なしに探索する姿勢が不可欠である。最初の市場は想定外の場所にあることが少なくない。
第二に、産学連携による「エビデンス構築」と「市場開拓」の同時進行である。 新潟大学との共同研究は、製品の科学的裏付けを得るだけでなく、研究者ネットワークという初期市場への参入経路にもなった。エビデンスとマーケットの両方を同時に獲得する産学連携の戦略的活用法として参考になる。
第三に、「日常行動のデータ化」という価値創造の型である。 歩数計が「歩く」をデータ化して一大市場を作ったように、bitescanは「噛む」をデータ化した。人が毎日無意識に行っている行動の中に、まだデータ化されていない領域は無数に存在する。その「計測の空白」を埋めるデバイスには、新市場を創出するポテンシャルがある。

