課題・背景:エネルギー大手が直面した「既存事業の外」への挑戦
ENEOSホールディングスは石油精製・エネルギー供給を基幹とする日本最大級のエネルギーグループだ。カーボンニュートラルへの社会移行が加速する中、同社は石油依存からの事業ポートフォリオ変革という経営的課題を抱えている。新エネルギー・水素・再生可能エネルギーへの大規模投資と並行して、社内から新しい価値を生み出す仕組みの整備も急務だった。
社内には優れた技術的知見と現場経験を持つ人材が多い一方で、新規事業のアイデアを試せるプラットフォームが存在しなかった。特に石油精製・ガソリンスタンド・物流などの現場に根付く社員が、日常業務の中で気づいた課題から新事業を立ち上げる機会は事実上閉ざされていた。現場で問題を発見した人間が、その問題を事業で解ける仕組みの不在が、イノベーションの制約となっていた。
熱中症はエッセンシャルワーカーが集中する夏季の屋外・屋内作業現場で深刻な労働安全課題だ。気候変動による気温上昇が続く中、冷却ウェアの需要は年々高まっている。しかし市場に流通する冷却ベストの多くは「氷水を入れる」「冷媒パックを差し込む」タイプで、冷却持続時間の短さとメンテナンスの煩雑さという課題を抱えていた。この現場課題に気付いたのが、ENEOSの工場で安全衛生管理を担当していた宮城克行氏だった。
取り組みの経緯:Challenge Xからカーブアウト独立へ
ENEOSは2019年頃にChallenge Xという社内ベンチャープログラムを発足させた。グループ社員から新規事業アイデアを公募し、審査を経て優れた提案を事業化検証フェーズへ進める仕組みだ。宮城克行氏はこのプログラムに「ドライアイスを冷却媒体とした作業服」というコンセプトを提案した。
ドライアイスは‒78.5℃という非常に低い昇華点を持ち、気化しながら周囲を急速に冷却する。従来の氷水ベストと比べて冷却効果が長く持続し、水の漏洩リスクや重量増加という課題も解消できる。ENEOSがドライアイスの製造・供給インフラを持つという点も、製品コンセプトとグループシナジーの整合を生み出した。Challenge Xで採択された後、宮城氏は事業化検証を進め、製品化にこぎつけた。
2024年6月28日、ENEOSホールディングスは米国子会社のCVC機能「ENEOS Innovation Partners LLC」を通じてENEOSアメニティに出資し、カーブアウト独立を正式発表した。宮城氏が代表取締役として就任し、Challenge X初のカーブアウト独立事例として業界の注目を集めた。
「ENEOSグループのリソースを活かしながら、エッセンシャルワーカーの作業環境改善という社会課題に事業として向き合う」
――ENEOSホールディングス プレスリリース(2024年6月)
サービス・事業の仕組み:ドライアイスジャケットが開く市場
ENEOSアメニティのコア製品「ENEOSドライアイスジャケット」は、ドライアイスを専用スロットに入れる形状の作業服だ。ドライアイスが昇華する過程で発生するCO₂ガスが服内を冷却し、着用者の体温上昇を抑制する。一般的な氷水ベストと比べて冷却持続時間が長く、補充のインターバルを長くとれる点が現場での使い勝手を高めている。
ターゲット顧客は物流・建設・工場・農業・警備などの屋外・高温作業環境で働くエッセンシャルワーカーだ。B2B主体の販売モデルで、企業の安全衛生担当部署・労働安全管理部門への直販・代理店経由販売を組み合わせる。夏季の熱中症対策コストは企業の安全衛生費として計上されるため、予算の意思決定者が明確なBtoB市場という特性を持つ。
ENEOSグループが持つドライアイスのサプライチェーン(製造・流通インフラ)は、製品の冷却媒体コスト管理において潜在的な競争優位を形成する。また、ENEOSのサービスステーション(ガソリンスタンド)網を通じたドライアイス補充拠点としての活用という展開も将来的な選択肢として存在する。
成果と現状:物流・建設現場での急速普及
設立後1年余りで、ENEOSドライアイスジャケットは物流業界・建設業界の夏季熱中症対策製品として認知度を高め、現場での導入が拡大している。業界メディアにも事例として取り上げられており、エッセンシャルワーカー向けウェアラブルデバイス市場における存在感を確立しつつある。
ENEOSにとっては、Challenge Xが「本格稼働するカーブアウト制度」として機能したという証明が得られた。プログラム開始から数年を経て初の独立事例が生まれたことは、今後の社員に対して「Challenge Xに参加すれば起業できる」という具体的なルーティングが確立したことを意味する。同社は引き続き新規事業・スタートアップとの共創を推進するCVC「MIRAI HUB」を並走させており、社内起業と外部投資の二軌道で新規事業ポートフォリオを構築している。
この事例から学べること
現場の安全管理担当者が発明者になり得る環境を制度として整えることが、大企業イノベーションの裾野を広げる。 ENEOSアメニティの発明は「工場の安全管理担当者」という、一般的にイノベーションの主体として想起されにくい職種から生まれた。制度がなければ埋もれていた知見が、Challenge Xを通じて事業になった。
CVCを投資主体にすることで、本体の稟議プロセスに縛られないスピードと柔軟性を確保できる。 ENEOSがENEOS Innovation Partnersを通じて出資したことは、グループ本体の投資委員会とは独立した機動的な意思決定を可能にする設計だ。大企業が社内ベンチャーに投資する際の「社内稟議の壁」を迂回する実用的な手段だ。
「本業のインフラ(ドライアイス)を冷却事業に転用する」という発想は、エネルギー企業固有の事業機会だ。 ガソリンスタンド網・ドライアイスサプライチェーン・エネルギー関連の現場接点という既存アセットと、新規事業の親和性を意識的に探索することが、大企業内起業家の競争優位につながる。
関連項目
参考文献・出典
- ENEOSホールディングス プレスリリース「ENEOSアメニティ設立・出資について」(2024年6月28日): https://www.hd.eneos.co.jp/news/release_information/year/2024/20240628_01_01_1190263/
- 日本経済新聞「ENEOSホールディングス、冷却ベストの社内起業に出資」(2024年6月): https://www.nikkei.com/article/DGXZQOUC301WU0Q4A630C2000000/
- ENEOSアメニティ公式サイト: https://www.eneos-amenity.co.jp/
- ロジ今日「ENEOSのドライアイス冷却服、作業現場で急拡大」(2025年): https://www.logi-today.com/847104