課題・背景
食品メーカーの味の素は、いま半導体パッケージ材料の世界シェアほぼ100%を握っている。始まりは1970年代の基礎研究にさかのぼる。半導体の微細化が進むほど、当時主流だった液体状のインク(ワニス)を基板に塗布する方式では、乾燥に時間がかかるうえ塗りムラや不純物の混入も避けられず、品質と歩留まりの限界に到達することは明白だった。
一方で味の素が模索していたのは、アミノ酸製造で培った有機合成化学の技術を食品以外の分野へ応用する道である。アミノ酸の製造過程で副産物として生まれる樹脂には優れた絶縁特性があることが分かっていたが、それを半導体産業に結びつけるには「食品メーカーが半導体素材を作る」という常識の壁を越える必要があった。
取り組みの経緯
味の素がこの「飛び地」に踏み出せた背景には、自社を「食品メーカー」ではなく「アミノサイエンスの会社」と再定義する経営思想があった。アミノ酸の化学的特性を極限まで追求すれば、食品という枠を超えた巨大な可能性が開けるという確信があったのである。
「ABFの開発を可能にしたのは、味の素グループが100年以上にわたって蓄積してきたアミノ酸に関する知見です。食品事業で培った有機合成技術が、半導体という全く異なる領域で花開きました」
――ABF イノベーションストーリー(味の素グループ公式サイト)
技術者たちは「フィルム状にすれば、液体インクの課題をすべて解決できるのではないか」という仮説を立てた。均一な厚みで、不純物の混入リスクもなく、乾燥工程も不要。この発想が、半導体製造の常識を根底から覆すゼロ・トゥ・ワンのイノベーションの始まりだった。
サービス・事業の仕組み
ABF(Ajinomoto Build-up Film)は、半導体パッケージ基板の層間絶縁材として使用されるフィルム状の素材である。従来の液体インク方式と比較して、ABFには決定的な3つの優位性がある。
第一に、 均一な膜厚 。フィルムをラミネートする方式のため、液体のような塗りムラが原理的に発生しない。第二に、 工程の大幅短縮 。液体の乾燥工程が不要になり、製造スピードが劇的に向上した。第三に、 微細化への対応力 。回路の高密度化が進むほど、ABFのフィルム方式の精度が真価を発揮する。
味の素の差別化は、インテルをはじめとする主要半導体メーカーに技術者を常駐させ、次世代チップの設計段階からABFの仕様を最適化する「伴走型開発」の徹底にもある。この顧客密着の姿勢が、 約25年間にわたる独占的地位 の源泉となっている。
成果と現状
ABFは現在、世界中のパソコンやサーバーに搭載される高性能CPU・GPUの絶縁材として、 ほぼ100%の世界シェア を握っている。2024年度の半導体素材ビジネスの売上高は 765億円 、営業利益は 402億円 で、営業利益率は驚異の 約50% を記録した。
「NVIDIAに代表されるAI向けの超高機能半導体でも、ABFはほぼ同程度のシェアを握っている。AI半導体は巨大なサイズと複雑な構造から、PC用とは比較にならない量のABFを消費する」
――プレステもAIも「味の素」頼み?(ゴールドオンライン, 2024年9月)
ABFの世界市場は今後も拡大が見込まれており、AI・データセンター需要の爆発的成長がこの「乗数効果」を加速させている。
2026年3月期:生成AI需要が全社の数字を動かした
味の素の2026年3月期連結決算は、 売上高1兆5,837億円(前期比+531億円)・事業利益1,811億円(同+218億円) となり、事業利益は過去最高水準を更新した。この増益を牽引したのが半導体パッケージ用電子材料、すなわちABFである。生成AI向け需要の拡大がそのまま利益成長に直結した形で、電子材料は同社の新たな成長エンジンとして位置づけられている。
食品メーカーの決算を、半導体材料が押し上げる。1970年代に始まった「飛び地」への挑戦が、四半世紀を経て全社の業績を左右する規模になったことを、この数字は端的に示している。
「値上げしない」という選択
AIチップのパッケージは多層化が進んでおり、1枚あたりのABF消費量は増え続けている。需要が供給を上回る局面で、独占的な供給者が取りうる最も簡単な手は値上げである。
だが味の素は2026年6月、2030年までの需要は満たせるという見通しを示したうえで、価格を引き上げるのではなく生産能力の拡大で応じる方針を明らかにした。ほぼ100%のシェアを持つ供給者が短期の値上げを選ばないのは、顧客との「共進化」で25年の地位を築いてきた事業にとって、価格で搾り取ることが長期の関係を損なうと判断しているためと読める。独占的地位の使い方そのものが、この事業の設計思想を映している。
展開・進化
味の素は2030年に向けて「利益の半分を食品以外で稼ぐ」という野心的な計画を掲げており、ABFと医薬品製造受託(CDMO)がその二本柱である。ABFの生産能力増強への投資を継続し、AI半導体向けの次世代ABFの開発も進めている。
一方で、米スタートアップThintronicsがABFの牙城に挑む動きもある。だが味の素は、四半世紀にわたり主要顧客と共に技術を進化させてきた実績と、アミノ酸化学の知見という参入障壁を持つ。この「顧客との共進化」こそが、技術的な模倣だけでは崩せない真の競争優位性である。
よくある質問:味の素と半導体をめぐる疑問
Q. 味の素はなぜ半導体素材を作っているのですか?
アミノ酸製造で培った有機合成化学の技術を応用したためである。アミノ酸の製造過程で生まれる樹脂に優れた絶縁特性があることに着目し、自社を「食品メーカー」ではなく 「アミノサイエンスの会社」 と再定義したことで、半導体パッケージ基板向けの絶縁材ABFが生まれた。
Q. 味の素ABF(味の素ビルドアップフィルム)とは何ですか?
半導体パッケージ基板の層間絶縁材として使われるフィルム状の素材である。従来の液体インク方式に対し、均一な膜厚・製造工程の短縮・微細化への対応力という3つの優位性を持ち、1999年の発売以降、事実上の業界標準となっている。
Q. 味の素ABFの世界シェアはどのくらいですか?
ABF基板向け絶縁材の世界シェアは ほぼ100% とされ、PC・サーバーから最先端のAI半導体まで、パッケージ基板に不可欠な素材となっている。
Q. ABF事業は味の素の業績にどう貢献していますか?
電子材料事業は高い営業利益率(本記事では約50%と紹介)を誇り、味の素が掲げる「2030年に利益の半分を食品以外で稼ぐ」計画の二本柱の一つに位置づけられている。2026年3月期の連結決算では売上高1兆5,837億円・事業利益1,811億円と事業利益が過去最高水準を更新し、その増益を半導体パッケージ用電子材料が牽引した。
Q. AI需要が増えているのに、味の素はABFを値上げしないのですか?
味の素は2026年6月、2030年までの需要は満たせるという見通しを示し、価格の引き上げではなく生産能力の拡大で対応する方針を明らかにしている。ほぼ100%のシェアを持ちながら短期の値上げを選ばない姿勢は、主要顧客との長期の共同開発関係を前提とした事業設計によるものと考えられる。
Q. 味の素ABFとNVIDIA・AI半導体の関係は?
AIサーバーやデータセンター向けの高性能半導体では、パッケージ基板の高密度化が一段と進み、ABFのフィルム方式の精度が真価を発揮する。NVIDIAをはじめとするAI半導体需要の拡大が、近年のABFの利益成長を強く後押ししている。
この事例から学べること
第一に、「自社の定義」を広げることが、破壊的イノベーションの起点となる。 味の素が「食品メーカー」のままであったなら、ABFは決して生まれなかった。「アミノ酸技術の会社」と再定義したことで、半導体という全く異なる市場が視野に入った。新規事業を構想する際には、「コア技術」で自社を定義し直すことが突破口になる。
第二に、ニッチトップ戦略はスケールの王道である。 ABFは半導体そのものを作るのではなく、その製造に不可欠な「素材」というニッチ領域で圧倒的シェアを確立した。市場全体を狙うのではなく、バリューチェーンの「チョークポイント(急所)」を見極め、そこで代替不可能な存在になること。営業利益率50%という数字が、この戦略の正しさを証明している。
第三に、顧客との「伴走型開発」が長期的な独占を生む。 技術的な優位性は模倣される可能性があるが、四半世紀にわたる顧客との共同開発で築かれた信頼関係と暗黙知は容易に複製できない。味の素はインテルやNVIDIAの開発チームに深く入り込み、次世代仕様を共創することで、競合の参入を構造的に阻んでいる。
関連項目
参考文献・出典
- ABF イノベーションストーリー(味の素グループ公式サイト)
- プレステもAIも「味の素」頼み?(ゴールドオンライン, 2024年9月)
- 味の素株式会社 2026年3月期 決算概要(味の素 IR資料・PDF)
- 味の素 公式サイト — https://www.ajinomoto.co.jp/asv/special/abf/


