課題・背景
ENEOSは石油精製・販売を主力とする日本最大のエネルギー企業である。しかし、 脱炭素社会への移行 により、化石燃料を中心とする既存事業モデルは構造的な転換を迫られていた。2040年に向けた新たな収益の柱を創出することは、企業存続に関わる最重要課題であった。
同時に、大規模組織特有の課題として、 社員の挑戦意欲を引き出す文化の醸成 も求められていた。石油元売という安定業界で長年培われた組織風土を変革し、自ら新しい価値を生み出す人材を育てる仕組みが必要であった。
取り組みの経緯
ENEOSは2019年度、社内ベンチャープログラム「 Challenge X 」を開始した。対象は グループ全体の約15,000名 で、勤続年数や役職による応募制限は一切ない。テーマも完全に自由であり、エネルギーに限らず幅広い分野での提案を歓迎している。
応募されたアイデアは、事務局によるメンタリングと 複数回の審査ステージ を経て絞り込まれる。最優秀賞に選ばれた最大2案は、提案者が 翌年4月に未来事業推進部へ異動 し、事業化に向けた最終検証に専念できる。会社設立後は提案者自身が経営者として事業を率いる道が開かれている。
サービス・事業の概要
Challenge Xから誕生した第1号企業が「 ENEOSアメニティ 」である。同社が開発した「 ENEOSドライアイスジャケット 」は、ドライアイスを冷却材として使用する熱中症対策製品である。
このプロダクトの開発は、ENEOSの製油所で働く 約700名の現場作業員 への徹底的なヒアリングから始まった。高温環境下での作業効率と身体冷却のバランスを追求し、3年間の検証テストを経て製品化された。現場から「 これまでのどの対策よりも涼しい 」と評価され、使用現場では熱中症発生ゼロを達成している。
Challenge Xからは他にも、 カーボン・オフセットサービス の実証実験など、エネルギー企業の知見を活かした多様な新規事業が生まれている。
成果と現状
ENEOSドライアイスジャケットは、自動車メーカーの工場や高速道路の建設現場などに導入が拡大し、 累計着用者数は2万人 を突破した。製造業・建設業における労働安全衛生の課題解決に貢献している。
Challenge Xは毎年継続的に開催されており、事務局は「 挑戦者を支援し続ける 」姿勢を一貫して維持している。プログラム全体として、新規事業の創出と 社内の挑戦文化の醸成 という二つの目標を同時に追求する構造が機能している。
ENEOSは「出島」戦略の一環としてオープンイノベーションにも注力しており、Challenge Xによる 内発的イノベーション と外部連携による 探索的イノベーション の両輪で2040年のポートフォリオ転換を進めている。
この事例から学べること
第一に、「自社の現場」が最も豊かな課題の宝庫であるという原則である。 ENEOSドライアイスジャケットは、自社製油所の作業員700名の声から生まれた。大企業は外部にソリューションを求めがちだが、自社の現場にこそ切実で解像度の高いペインが眠っている。社内起業の初手として「まず自社の現場を歩く」ことの有効性を示す好例である。
第二に、「2040年の柱」という長期ビジョンが大胆な提案を許容する構造を作った。 短期的な収益性で評価すると、多くの革新的なアイデアは却下される。Challenge Xが「2040年に会社の柱となる事業」を明示的に求めたことで、審査基準が既存事業のROIではなく将来の市場創造力にシフトした。時間軸の設定が制度の質を決める。
第三に、「出島」戦略との棲み分けによるイノベーション・ポートフォリオの構築である。 社内ベンチャー(Challenge X)と外部連携(オープンイノベーション)を並行して推進することで、内発的・探索的の両面からイノベーションの確率を高めている。単一の制度に依存せず、複数の打ち手を持つポートフォリオ思考が重要である。


